【ブルースの歴史・3】ブラインド・レモン・ジェファスン編

   

text:高良俊礼(Sounds Pal)

>>【ブルースの歴史・2】 カントリーブルース編の続きです。

ブラインド・レモン・ジェファスン

パパ・チャーリー・ジャクソンの《パパズ・ロウディ・ロウディ・ブルース》を録音/販売したのは、大手映画会社パラマウントのレコード部門であった。

「黒人の弾き語りシンガー」の、思いもよらぬヒットに驚き、気を良くしたパラマウントは、全国に網を張って、評判の良い男性ブルース・シンガーの捜索に躍起になった。

その“網”に最初にかかったのが、ブラインド・レモン・ジェファスン(ジェファソン)である。

伝記によればレモンは、1897年頃にテキサス州東部ワーサムという村の中のはずれにあったカウチマンという小さな集落に生まれた。

幼い頃から全盲か極端な弱視であり、生計を立てるためにかなり早くから音楽の世界に身を投じたと云われ、1910年代には既に、街辻やダンス・パーティーでブルースやバラッドを唄い、或いは教会で黒人霊歌(スピリチュアル)なども唄っており、人気もあってそこそこ羽振りのいい暮らしもしていたようである。

ピアニスト、サム・プライス

1925年、テキサス州の州都ダラスで、昼間はレコード店や靴磨き屋で働きながら、夜になるとナイトクラブに出演して、ジャズやブルースを弾き、生計を立てているサム・プライスというピアニストがいた。

彼はよく、昼間にダラスまでやってきて、街辻で唄い、夜中の10時頃まで大勢の聴衆を魅了していたレモンを観ていた。

彼自身、ピアニストではあったが、レモンのその太く張りのある歌声と、誰にも真似出来ない巧みなギター・プレイには圧倒されたという。

やがて公私共にレモンと親しい仲になったプライスは「テキサスで評判の良いギター弾き語りのシンガーを探している」というパラマウントへ、レモンの人気とその卓越した歌とギターの魅力に関するレポートを提出する。

レモンはその年のうちにレコーディング・スタジオに招かれ、最初のレコードを録音する。

記念すべき2曲の初録音のうちの1曲《オールド・ラウンダーズ・ブルース》は、よく伸びる歌声のコール(呼びかけ)に、単弦とコード・ストロークの両方を見事に織り交ぜたレスポンス(応答)がリズミカルなやりとりを見せる見事な「ブルース」だったが、これはどういう訳かすぐに発売されなかった。

しかし、レモンには幸運なことに何度かチャンスがやってくる。

ロング・ロンサム・ブルース

2度目のレコーディングは、1925年か翌26年にディーコン・L・J・ルイスという芸名で収録された2曲の黒人霊歌(《アイ・ウォント・トゥ・ビー・ライク・ジーザス・イン・マイ・ハート》《オール・アイ・ウォント・イズ・ザット・ピュア・リリジョン》)で、これはまずまず売れたようだ。

1926年2月には、続けざまに、今度は「ブラインド・レモン・ジェファスン」の名前で《ガット・ザ・ブルース》、《ロング・ロンサム・ブルース》の録音を行い、《ロング・ロンサム・ブルース》は、「男性弾き語りシンガーが歌うブルース」の、全国的な初めてのヒット曲となった。

これより1928年までの2年間、ブラインド・レモン・ジェファソンはアメリカ国内で最も成功した男性ブルース・シンガーとなった。

彼の出したレコードは、累計30万枚以上売れたというから、当時の蓄音機の普及率を考えれば、その売り上げは現在のミリオン・セラー以上のものだったに違いない。

レコードが売れて街辻で唄う必要もないと思ったレモンは、念願だった北部の大都市シカゴに移住する。

シカゴのレモン

シカゴでは運転手付きの車に乗り、スターの象徴ともいえるクリスマス・ソング《クリスマス・イヴ・ブルース》とニューイヤー・ソングの《ハッピー・ニュー・イヤー・ブルース》も吹き込んでいるが、これらの曲が録音された1929年には、どういう訳かレモンはレコーディングに対する情熱を失い、その暗い影も楽曲に何となく陰鬱な空気を落とすことになる。

この時期の録音といわれる《マルチーズ・キャット・ブルース》や《D.B.ブルース》などでは、悠然と声を張り上げて唄うスタイルこそ変わらないが、その声はどこか内へ内へと向かっているようなアンニュイな余韻が残り、「自由自在に躍るような」と称されたギターのバッキングやオブリガードにも、不穏な”間”が多くなってくる。

そして1929年、ある真冬の寒い日に、レモンはシカゴの路上で謎の死を遂げる。

死因 ブラインド・レモン

雪道で迷子になって心臓発作を起こしたという説や、運転手に見捨てられて車内で凍死したという説など、彼の死は未だに様々な憶測がまとわりついていて、真相というものが全く見えないままであるが、テキサスの片田舎から南部一帯で人気を博し、レコードという新しい媒体による初の大ヒットという偉業を成し遂げたスターとして、また、その「完コピはまず無理だろう」と今も言われている自由自在に変化して、今日に至るまでのギター・ソロの全ての基礎となる驚異的な単弦ソロ奏法というものを、最初から完璧な形で生み出した偉大なギタリストとして(彼のギターを間近で熱心に聴いていたのが、少年時代のT・ボーン・ウォーカーであり、ライトニン・ホプキンスだった)は、何ともあっけない人生の幕切れだった。

尚、彼が最初にレコーディングした《オールド・ラウンダーズ・ブルース》、《ビギン・バック》や《ロング・ロンサム・ブルース》、《ガット・ザ・ブルース》、そして代表曲ともいえる《ザッツ・ブラック・スネイク・モーン》は、Pヴァインからリリースされている『ガット・ザ・ブルース~キング・オブ・ザブルースVol.2』で、本文中に紹介したその他の曲は、同じくPヴァインからリリースされている4枚組の全曲集『コンプリート・レコーディングス』に全て収録されている。

ブルースに焦がれて

謎に包まれたブラインド・レモン・ジェファソンの生涯を執筆するにあたっては、上記CDその他アルバムのライナノーツを参考にしたが、より深くレモンのことや、戦前に活躍したブルースマンについて知りたい方は、彼らの実態が多くの証言と共により生々しく記述されている ピート・ウェルディング著、小川隆・大場正明他共訳の『ブルースに焦がれて』を一読することを強くお薦めしたい。

記:2014/11/18

>>【ブルースの歴史・4】 ブラインド・ブレイク編に続く

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●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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