アフロ・キューバン・ジャズが生まれた背景

   

Night in Tunisia
Night in Tunisia

負けたディジーは考えた

ビ・バップを創出した人物の一人、トランペットのディジー・ガレスピー。

彼はジャズミュージシャンを相手に夜な夜なジャズクラブでジャムセッションをするだけには飽き足らず、ある日、ラテン系のミュージシャンが演奏するバンドに飛び入りをした。

当時のニューヨークには、キューバや南米から移住してきたミュージシャンが多く、ラテン・ミュージックも盛んだったのだ。

ディジーが飛び入りをしたのは、当時の人気、実力ともにナンバーワンだったヴォーカルのマチートが率いるバンド。

勇んでステージに上がって演奏したものの結果は惨敗。
ラテン系音楽の持つ強力なビートに打ちのめされてしまった。

ジャズの領域では「勝ち」のディジーも、ラテンでの勝負は「負け」。

本場のラテンミュージックという土俵の上で演奏しても、自分のトランペットが強力なリズムに埋没してしまうことを悟ったガレスピーは、ラテンを演奏するのではなく、自分を引き立てるためのラテン風ジャズを作り出せば良いと考えた。

逆転の発想だ。

そこで、マチートのグループにラテンの指導をしてもらいながら、ラテン風のリズムを導入したオリジナルナンバーを書いた。

その第一号が《チュニジアの夜》だった。

1944年のことだった。

この路線を追求しようとしたガレスピーは、キューバからパーカッション奏者のチャノ・ポゾを呼び、自身のバンドに引き入れ、このバンドが人気を博した。

この演奏に影響を受けたニューヨークの多くのジャズマンも達もラテン風の演奏を始めたこともあり、「アフロ・キューバン・ジャズ」という言葉が生まれ、ビ・バップから枝分かれした新しい音楽として市民権を得たのだった。

記:2010/05/31

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