ヒトは「いじめ」をやめられない/中野信子

   

人間の身体は脆弱である。

他の哺乳類と比べると脚も遅いし腕力も弱い。
握力だってチンパンジーにも劣る。
そんな弱い人間って「種」だが、絶滅をせずにこれまで生き残ってきている。
というより、どんどん活動領域を拡張し、他の生物を脅かしながら増殖すらしている。

それはなぜか?
⇒弱い個体を犠牲にしながら生き残るという選択肢を取ってきたから

「集団をつくる」という機能こそが人間にとって生き残るための大きな武器だった。いや、今でもそうだが、「集団」をつくり維持することが人間が生き延び、繁栄をしてきた大きな理由だった。

つまり「社会性」が人間にはとても大事なことなのだ。
その大事な「集団」を壊すヤツが、人間にとってはもっとも「脅威」となる。

脅威は矯正。
あるいは排除。

矯正⇒学校の先生みたいだな
排除⇒学校のイジメみたいだな

ま、学校という場所自体が、「人間というシステム」が端的に現れやすい環境なのかもね。

繰り返すが、人間にとって、脅威とみなした相手を排除、あるいは矯正することが命を守るために大事な行動となる。

脅威となる人間、つまり集団のルールから逸脱した行為をする人間が増えると、コミュニティが崩壊してしまうからだ。

よって、制裁(サンクション)が加えられることになる。

これを加えることによって集団、社会性を維持しようとする。それが人間。

サンクションを加えない集団は亡びてしまうという歴史がある。

過去から現在にかけて洋の東西を問わず、フリーライダー(ズルしてタダ乗りする人)に制裁、もしくは排除しようとしてきたことが、ある意味人類の歴史なのかもしれない。

長い時間をかけて、このサンクション(=制裁)にゲーム性や快感すら覚えるように脳の中に形作られてきた。
滅ばないために、集団として生き延びていくために。

本書を読み、改めて「村八分」という言葉を思いおこすと、「ああなるほどね」と腑に落ちるることだろう。

ところで、最近のニッポンの週刊誌やそれを買って読む人、あるいはワイドショーやそれを見る人にとって「制裁」を加える対象は「不倫する芸能人」ということになるのかな?

べつに自分が所属している社会とは縁のない社会(=芸能界)で活躍している人が不倫をしようが何をしようが、自分が所属しているコミュニティが滅びたりするわけでもないんだけどね。

ただ、過去のムラの狭い農耕社会で、突然変異的に美しい娘が生まれたり、美しい人がやってきたりすると、男たちが彼女に惚れて見とれて仕事にならない(=集団が滅びてしまう可能性が生じる)。あるいは自分の夫が美しい人に夢中になって自分に向き合ってくれないと子孫が残せないという事態に陥るわけで。
だから制裁。
しかし、だからといって露骨に「この泥棒ネコ!」と集団で制裁を加えるわけにもいかないだろうから、だからこそ「生贄」という発想が生まれたのかもしれないね。

男を惑わす美しさを持っている女性ほど制裁、排除の対象になる。

「美人薄明」という言葉はそういう背景から生まれたのかもしれないね。

いつの時代も「希少」な美人は損なのだ。
だから、我々オトコは制裁の標的になりやすい美人を守らにゃならんのだ。たとえヒトという「種」の存続や繁栄の原理に反しても。

……って、いつの間にか本書に書かれた内容からずいぶんと逸脱した発想に飛躍してしまっているけれど。

記:2017/10/13

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