ブルースピープル/リロイジョーンズ - カフェモンマルトル

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ジャズと映画とプラモの日々:高野雲

ブルースピープル/リロイジョーンズ

      2018/07/03

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ブルースピープル

「好き」を超えて

音そのものを愛でる。
好きな曲を「それ1曲の単体」で愛でる

もちろん、これだけでも十分だと思う。

だけど、その音が生まれた背景や社会状況を知れば知るほど、好きだった音楽が、「好き以上」の存在になってしまい、体内にこびりついてしまうことがある。

さながら、憧れの異性が恋人となり、その恋人がやがて家族となるように。

もちろん「好き」には違いなんだけれども、「好き」という一言だけでは片付けられない、経験だったり歴史だったり、あるいはちょっとした不満だったりと、安易に「好き・嫌い」の一言で片付けてしまうことが恐ろしく浅はかに感じられてしまう。

私にとってのブルースは、まさにそれなのかもしれない。

聴くのが怖い

その昔、テネシー州にある、車を少し走らせればミシシッピ川がある大学で、「アメリカの学校制度の歴史(=人種差別の歴史)」の講義を受講して以来、私にとってブルース、特に戦前ブルースの聴こえ方が変わってしまったような気がする。

突然変異的に変化をしたわけではなく、じわじわ、じわじわと。

ビール・ストリートが近所にあり、また、ロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売ったといわれる四辻もあった地域ということもあってか、一時期はロバート・ジョンソンを聴くことが怖くなったこともある(面白いことに帰国してからだが)。

曲にまとわりつく時間と歴史の連続性

いや、「怖い」というのとは、少し違うのかもしれない。
「重く」なったといったほうが正解なのかもしれない。

なぜかというと、これまでは何の気なしに聴いていた何の変哲もないブルースの1曲でも、その土地の空気を吸い(ブルースマンたちが生きていた時代とは違うけれども)、その背景にある歴史を知れば知るほど、そのブルースのたった1曲が、1曲という単体ではなく、この歌にまとわりつく歴史や時間の「連続性」のようなものが、やわらかな綿のようにギターの音やブルースマンの歌声に包まれているように感じるからだ。

特に私の場合は、ロバート・ジョンソンに対して、それを強く感じたのだろう。

Robert Johnson/The Complete Recordings
参考記事:コンプリート・レコーディングス/ロバート・ジョンソン

ロバート・ジョンソンは何十年も前にテキサス州サンアントニオでブルースを吹き込んだ。

それから数十年もの時を経た現在の日本で、今、現在、自分がロバート・ジョンソンを聴いている。

この時間と場所の距離の隔たりの大きさ。
果たして今自分は本当にロバート・ジョンソンを聴いているのだろうか?
聴いていてもいいのだろうか?
本当は聴いていないんじゃないんだろうか?

そんなことばかりがグルグルと頭の中をめぐることが「重い」、そして時として「怖く」感じる。

そういうことなのかもしれない。

戦前ブルースしか聴けない病

このような、音に宿る連続性と時間の堆積までをも無意識に感じてしまうがゆえに、私の場合は時折「戦前ブルースしか聴けない病」が発症するのかもしれない。

ややこしくて、面倒な症状だと思うでしょう?

じつはそうでもない。
楽しい。

もっとも、楽しいといっても、ゲラゲラと笑いがこみ上げてくるような楽しさではない。

憂鬱さが入り混じったブルーな楽しさだ。

女性の多くが、好きな人に一方的に思いを馳せるような切ない気持ちに近いのかもしれない。

近くて遠い距離に対しての想い。
物理的には、手の伸ばせば触れられる距離にあるのに(それこそCD棚に手を伸ばせばいつでも聴ける)、気軽に触れてはいけないような、心のどこかがストップをかけるような状態(結論を急いではいけない、ゆっくりと楽しもうではないかという心の声)。

仮に、その想いを突き破り、交際がかなったとしても(ブルースを聴くことが出来ても)、本当に今の自分はこれでいいのだろうか?という想い(本当にそれでよかったのか?最良の選択だったのか?という疑問)。

面倒くさい心の動きではあるが、この面倒くさい感情をも、ブルースというとてつもなく広がる音楽の上で転がして楽しんでいる自分もどこかにいるのだ。

奄美大島在住の生粋のブルースマニアでもある高良俊礼氏も、時折「戦前ブルースしか聴けない病」にかかるという。
それを知ったときは、やっぱり同じ人がいるんだと嬉しい気持ちになったものだが、おそらく高良さんが抱く戦前ブルースに抱く感情も私と同種のものかもしれない。

いや、戦前ブルースには、聴けば聴くほど、知れば知るほど、引き返すことの出来ない深い闇が宿っているのかもしれない。もちろん、80年以上も前にリアルタイムで歌われた音楽そのもの、その瞬間には闇のようなものは宿っていなかっただろう。

しかし、その昔にいつの間にか降り積もった時間の堆積が、いつしか巨大なベールを形成し、そこをくぐり抜けられる者だけを奥からひっそりと手招きをしているような気がする。

知れば後戻りが出来なくなる

曲の成り立ち、生まれた背景、どんな風景の中、そのブルースは鳴っていたのか。

当時のアメリカの歴史を知れば知るほど、音楽そのもののみならず、それに付随する様々な要素が内なる想像力をかきむしる。

普通なら面倒くさいと思うだろう。
それが普通の人が持つ感覚なのだと思う。

しかし、中には音楽に浸り埋没するだけではなく、それに付随するサムシングまでをも見たい、知りたい、食べたい、愛でたいという、どうしようもなく業が深い人だって中にはいるはずだ。

そういう人だけが、ブルースの歴史を読めば良いと思う。

もちろん、現地にいって歴史なぞを本格的に学ばずとも、一冊の本が、これまで何気なく接していた音楽が持つ風景を変えてくれることだってあるはずだ。

この本がまさにそうなのかもしれない。

リロイ・ジョーンズの『ブルース・ピープル』。
最初にブルースの歴史に触れるには最良の書だろう。

手に取り数ページを読み、本書に魅入られてしまったら(あなたが本を魅入るのではなく)、もう抜けることは出来ない。

ようこそ、ブルース快楽地獄へ。

記:2018/01/13

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