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ジャズと映画と本の日々:高野雲

舌鋒鋭き「カラス本」/高柳昌行『汎音楽論集』

      2018/01/11

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karasu

カラス。

鳥類の中ではもっとも頭がよいとされるこの鳥は、猛禽類ならではの獰猛さを持つと同時に、その知性と兼ね備えた強靭さを象徴するかのように、真っ黒。

ダークで近寄りがたい知性を秘めた、という点では、孤島のように厳しく隔絶された環境で1人孤高に音楽表現を生涯貫いたギタリスト・高柳昌行の音の肌触りそのものともいえる。

音のみならず、彼の筆力も読むものを引き込まずにはいられない、知性と鍛錬と音に対する厳しい姿勢に裏付けられたロジックと主張があり、それを象徴するかのように、まさに彼の「音楽論集」も、カラスのように真っ黒だ。

舌鋒鋭く、だがしかし、彼の主張は隅々まで、至極もっとも。凡百の音楽評論などは一気に霞ませてしまうほどのパワーを秘めている。

その一部を抜粋してみよう。

●音符が読めずに演奏したところで、これは趣味道楽の範囲であって、プロではない。素人は批判の対象にならぬ。譜面の読めない音楽家は、文字も読めない、まだまだ、ほんの幼い子供と同じなのである。ただひとつ異なることは、幼児は邪気がなく何に依っても学ぼうとする知識欲が盛んなのに反して、彼らのそれは全く認められないことだ。その上、(これもほとんどの演奏家に通じることだが)なお悪いことには、ロクでもない潜在意識で他人を非難することだけは知っているのだから、ただただあきれるばかりである。

●ジム・ホールは最も協調性に富んでいる。それでいてそのままでは終わらないところに彼の非凡さがある。数多くの演奏者との協演がそれを証明している。そして、これ程の多様性を持ち合わせている人を他に知らない。調弦の組合せ、音色の使い分け、音楽の質に適したソロ・フレーズの配合、何をとっても文句がないが、唯、時として鋭さに糖衣が掛かったような歯痒さを覚える。

ケニー・バレルに影響を受けた日本人は多い。とっつきやすいブルー・ノートの多用、理屈っぽくない平板的フレーズ、表面では一聴、そのリズムへの“乗り”が簡単そうな所、等など理由が揃っている。安易性にしびれていることは愚の骨頂である。バレルは実にブルージーであるが、語りが整然とせず語尾が確立しない。また音色が如何にも電気的なことが多く、線が細い。

●グラント・グリーンは鼻もちならぬ悪癖がある。耳をお持ちの方ならお解りの如く、「ヨイトマケ」または酒席の「ソーラン節」である。だが、それが悪い音楽だとは言わない。

●ジョー・パス、指は良く動くが良識的な音楽性が感じられない。宣伝の発達し切ったアメリカ・レコード会社のジャケット解説が全く当てにならぬ好例。

喫茶店で他愛のない低級浮かれジャズに身をゆすって聴く連中(その中に何と多くのジャズメンが居ることか)、理屈だけは立派だが、何とも空しい無意味なソロを得意になって、延延と聴かせる演奏者くずれ、一体何を考え、何をやっているのか神経を疑いたくなる。

●音楽の聴き方(勉強のし方)というものは読書に似ている。三通りの読み方があって、第一は、筋書きにつれて、喜んだり、悲しんだり、描かれた人物にほれ込んだり、憎しみを感じたりし乍ら読む―これは一番浅い読み方である。第二は、その本の成立や歴史的な背景を考えたり、その作品が何を表現しようとしているかを思索して読む読み方―これが中位の読み方、最も深い読み方は、著者の境涯を読み取って行くことであり、作者の人生観、世界観、宇宙観を読むことがある。この作業を経ずしてどうして音楽の醍醐味が解ろうか。専門家なら尚更のことである。

●勝れた音楽を生む為には、勝れた内質を持たねばならぬ。豊かな知識と感受性、正確な判断力が必要となるのである。豊かな知識と感受性、正確な判断力が必要となるのである。そして、その豊かな人間性の上にテクニックが必要となるのである。これはよく混同されている様であるが、音楽とテクニックは違うのだ。それをテクニックで音楽を計ろうとする評論家が未だにチラホラしているのだから、全く恐れ入った話である。“音楽とは何なのか”を知ろうともしないで語るのだから、それを鵜呑みにする側では、ますます混乱をまき起こす結果となる。音楽は思想、感情を音に託して表現するものであり、その為にテクニックが要求されるのである。

●プロは趣味、道楽の延長であってはならぬ。趣味であっても、熱心に日に何時間もその為に費やして学ぶ人もある。それから推して考えても、プロと名が付けばどれ程の厳しさが要求されるか推察出来よう。

●厳しさとは、歴史と伝統を踏まえ現代を直視し、未来に立ち向う資質を練磨すべく、日々自分自身に対して“行”をかせることの出来る人間が持つ特権である。己れの属する分野に微塵も惰性がつけ入る隙を持ってはならない。譜面も読めぬような者は論外である。又、演奏にムラがあり、得意とする曲はまあまあ聴けるが、後はどうにもならないという手合いも同様であろう。譜面は弱いが、アド・リブは上手いというのもデタラメな話である。譜面の弱い点を治そうともせぬ人間に、勝れたアド・リブの出来よう筈があるまい。そんなものは単なる音の、無意味な羅列に毛の生えたお遊びでしかない。

●演奏は真剣勝負に等しい。一度出した音は絶対に直すことが不可能なのである。一音一音に自分の生命がみなぎっておらねばならぬのは当然であろう。そこに趣味に溺れる人の何倍もの修練に磨かれたテクニックが用いられ、音が聴衆に語り、説得し、喜怒哀楽を通して感動をぶつけて行くのである。楽器は語りかける口であり、音は言葉となる。それを、己れの楽器すら満足にこなせぬままステージに立ち、その上に、語るべきものを持たぬのだから、ロレツの廻らぬ白痴の寝言を聴いているようなものになるのである。

●一音は文字にして数行、それ以上を費やし、絵画にして考えれば、あらゆる絶妙な色彩の変化を以って表現されるものが含まれるのだ。楽器を鳴らすからには、せめてその自分の楽器の持つ機能だけでもフルに発揮させて欲しいものだ。

●構えも出来ぬまま、前衛だの何だのと血迷わぬことだ。前衛はカクレミノではない。前衛と称されるものを演奏し、評するには、どれ程高度な内質が要求されるか考えれば、己れのテクニックのなさと共に、不勉強さをカバーする為に安易に用いられるべきものではないことが判然とするであろう。その内容をすら考えずに、表面の感覚、それもペラペラの感覚のみで前衛を口走るのは、カラッポの頭蓋骨を割って人前にさらる様のようなものである。

●「好きこそものの上手なれ」というが「下手のヨコ好き」というものもある様に、好き、イコール才能が有ることにはならぬ。又、才能は努力に依って生れるものでもない。ここのところを混同していると、生涯、道を踏みあやまったことに気付かず、無駄な努力をくり返し、一向にうだつの上らぬ生き方を余儀なくされるのである。

●ジャズは生きた音楽であり、再現音楽ではない。だからこそ演奏行為を通じて生への充足感が得られる訳だ。勉強する時間の足りなさを嘆く様でなくて何が音楽家だ。

もっともっと引用したいのだが、「読もう!」と思った人の楽しみを奪うことになるので、このへんで。

それにしても、グラント・グリーンが「ヨイトマケ」とは(笑)。

しかし、たしかに言いえて妙。

音に対しての厳しい視線を持った演奏者ならではの指摘だ。

私のように、ノンベンダラリと音を垂れ流しているような楽器弾きには耳の痛い言葉の連続で(しかし、妙に心地が良かったりもする)、心も身も引き締まる思いがする。

また、楽器を弾かない人にとっても、彼の音に対する厳しいまなざし、音への接し方は襟を正す思いに違いない。

ストイックな音楽家のストイックな目線。

砂糖だらけにまぶされた“甘音”ばかりにズブリと浸かるのも良いが(あ、私のことだ!)、そんな聴き方をしている自分が、知性ゼロのノータリンに思えてくる、ある意味危険な本でもある。

読む刺激、文体を味わう心地よさ、ピリリと、ときにはグサリと心臓を突いてくるこの本は、読書の楽しみも十分に味わえる良書といえる。

好奇心が旺盛で、「知」へのあくなき欲求を持った人には、是非ご一読をオススメしたい。

記:2007/04/15

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