沖縄文化論/岡本太郎

      2016/11/16

seesaa

岡本太郎の『沖縄文化論』読了。

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

最初は、返還前の沖縄の軽い旅行記かな、と思って読んでいたが、さにあらず。

沖縄を題材に、文化の本質をあぶりだす深い文化論なのだ。

もっとも、それもそのはず、岡本太郎は、パリ大学・ソルボンヌで民族学を専攻しており(専攻領域はオセアニアだったが)、単なる、いち芸術家、表現者にはとどまらない優れた文化考察者でもあったのだ。

特に、引用長くなってゴメンナサイだけど、

文化とは何だろう。土地の風土によって盛りあがり崩れる岩石や、その養分と空気を吸って生い育つ植物のような、根をはったものが本当だと考える。

「クルチュラ」という語源のとおり、その土地を耕すことによって生成するもの、それがさまざまの外的条件を吸収し、逞しくふくれあがっている。
その土壌とは、民衆の生活以外にはない。
自分のところに吹く風。自分のところにわきあがる水。
そののっぴきならない独自の生命のエキスプレッションとして伸びあがり、花ひらくのである。やがて貴族や特権階級によって、形式の洗練をほどこされ、余剰の富と力の象徴、虚飾的な美となる。いわゆる高度な文化を誇ることになるわけだ。
ところが日本の過去の文化の多くは、大陸で凝結した珠玉が、そのまま移されたものであり、またその巧みなアプリケーションである。
この太平洋の島々の民衆が、自分たちのパティキュラーな条件を土台に出発し、イマジネーションを結晶させたものとはいえないのである。
この土地で、ここでなければ出来ない、日本だからこそこれを生んだというものがどれだけあるだろう。もちろん、日本にだって沖縄にだって、そういう盛り上がりがあったはずだ。たしかに文学、演劇、建築などの一部に、ぎりぎりの表情を見ることはできる。だが感動の多くは、今日でも、厚い地層の下に伸びきらないままで埋もれている。それがふくらみ、高度の洗練され、結晶される。熟成の機会をもたなかった。いつまでも、外からくるものの方がいいんだ、と思ってしまったのだ。
この文化のメカニズムは、出前の料理のようなもの。手持ちの材料で、苦労して何か作りあげようとしている。まだ煮つまらないうちに、よそからおいしそうな匂いをたてたのが届いた。上等の中華料理だ。びっくりするほどうまいし、豪勢である。……となれば、不細工な手料理の方は放り出して、そっちに飛びつくのが、まあ人情の当然といえるかもしれない。食い意地の場合は、それで済む。しかし文化となると、そこに身にそぐわない後味がのこる。
しかもそれはいつでも貴族、特権者だけがありついた御馳走だった。一般民衆の腹はいつも空っぽ。実際、つい先頃まで庶民生活は余剰なものは何一つない、空っ風が吹きとおるような暮らしであった。庶民は常に太平洋の孤島の運命をつづけていた。今日なお、ほんの上っ面にかぶった、モナカの皮みたいなものを除けば、精神の実体は依然として素っ裸だ。それは沖縄庶民の生活と、まったく同質なのだ。ここの生活にふれると、それがちょうどレントゲンの透視を見るように、すけて見えてくる。

……のあたりの展開が圧巻で、ふだん、漠然と(本当に漠然と)私がなーんとなく考えていることを、ものすごく具体的に、よくぞ言語化してくれました! と言うしかないほどの鋭く的確な考察だと感じた。

渋谷のタワーレコード5Fジャズ売り場の書籍コーナーで、なにげなく買って読んでみたのだが、これはなかなかめっけもんな本だ。

こういう良書を、さりげなく書籍コーナーに置いているタワーの書籍担当者も、ニクいぜ!(笑)

記:2009/03/09

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