カフェモンマルトル

text:高野雲

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読んだ本の殆どは、どんどん処分してしまう私についての話

      2015/05/30

SANYO DIGITAL CAMERA

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私の場合、読み終わった本は、ほとんどの場合、古本屋に売るか、人にあげてしまうかにしている。

出来るだけ自室に本は残さない。

だたでさえ置き場所が無いところに、これ以上本が増えると邪魔だし、埃の元にもなる。

それに、ほとんどの本は二度と読み返さない。

読み返したくなったとしても、その場所って全体のごく一部なことが多い。だったら、立ち読みするなり、図書館でその場所だけメモなりコピーすれば良いだけの話。

「やっぱり捨てるべきでなかった」と思えば、買いなおせば良い。

そこでウジウジと「やっぱり売るんじゃなかった」と後悔するよりも、たかだか千円ちょっとの買い物をするほうが、精神衛生上にも良い。

もちろん、たまに装丁が素晴らしくて頬擦りしたくなるような本もあるので、そのような本は捨てずに取っておくが、まぁ32冊中31冊ぐらいの割合で、古本屋行きだ。

私の感受性が鈍いだけなのかもしれないし、もちろん本の内容によっても異なるが、だいたい1冊の本から得られる新情報や、血肉として内部に取り込みたい内容、というよりも“読んでいる現在において”必要な情報は、せいぜい1個か2個といったところ。

それらの箇所はすぐにノートにメモをとってしまえば良いし、それが面倒なときは、“なんという本の真ん中へんあたりにこういうことが書いてある”という情報を頭の中にインデックスに作ってあげれば良いだけのこと。

大事なことは暗記ではなくて、どこをつつけば何が出てくるかという、外部記憶を手繰り寄せる(検索するための)インデックスを作ることだと思っている。

だから、ある種、このサイトの読書記録は、私の頭の中の外付け外部記憶型インデックスともいえる。

読んだ本の最低限の情報を写し取ってしまえば安心するし、記録を残してしまえば、気持ち的にもうその本からは離れることが出来る。結果、すみやかに次の本に気持ちをスイッチさせることが出来るのだ。

私に読まれた本は、私が本を読み終えて表紙をパタンと閉じた瞬間に運命が決まる。

私は未読の本は決して本棚には立てかけない主義だ。なぜなら、書棚に飾った時点で安心して読まなくなってしまう可能性が高いから。だから、私は未読の本はすべて机の上に横に積んでおくことにしている(天井の高さにまで達したこともある)。

で、多くの本の行き先は、書棚ではなく、“古本ボックス”というA5サイズの判型だったら30冊ぐらいは入るビニールケースに直行する。

で、このケースがパンパンになった時点で、古本屋に持っていくわけだ。

気がついたら貯まっていたので今日も行ってきた。

「いつもいつも、新刊をお売りいただいてスイマセンね、ありがとうございます」。なんか最近、こう言われることが多くなってきた。

“新刊を大量に持ってくる客”と店員には記憶されてしまっているのだろう。

新刊を売ったところで、大したお金が戻ってくるわけではないが、それでも違う新刊1冊分ぐらいは買えるぐらいのお金は戻ってくる。そのお金で、また新刊を買って読む。そんな循環が繰り返されている。

そう、循環。

私は循環(circulation)という言葉が好きだ。

傲慢な考え方なのかもしれない。しかし、私の人生観、世の中感は終始一貫して地動説ではなく、天動説だ。

もちろん“地”は自分のことで、天(=星)とは私以外のすべてを指す。

私自身は循環しないし、動かない。変化しない。

もちろん私の肉体は今後は老化してゆくだろうし、酒を飲みすぎれば腹も出るし、勉強すれば知識が増えたり、考え方のレパートリーも広がるだろうが、そういった物理的に変容する肉体や脳内情報の話ではなくて、もっと根本的な私自身。

この私自身は常に変わらないし動かない。と、思っている。

傲慢かつ間違った認識なのかもしれないが、これは、不思議なことに子供のころから、妙な確信として持ち続けていることなのだ。

この感覚を言葉でうまく説明出来る自信はない。

ただ、一つだけたとえ話をすると(ヘンなたとえだが)、たとえば、私がラーメンを食べたいと思い、ラーメン屋に向かって歩くとする。

実際、ラーメンを食べたいと思うのは私自身だし、私自身の身体がラーメン屋に向かっているわけだが、私の考えとしては、“ラーメンが私に食べたがってもらっている”のだし、“私がラーメン屋に向かっているのではなく、ラーメン屋が私の身体に近づいてくる”のだ。私はラーメン屋がこちらに向かってくるのを手伝うために足を動かしているに過ぎない。移動しているのは、周りの景色なのだ。

極端に言えば、そういうこと。私の周りを様々なモノや人や事象や出来事が通り過ぎてゆくだけ。そう思っている。

これまで、私の人生の中、様々な人やモノや出来事が通り過ぎていった。

愛惜を感じるものもあれば、無くなったこと、捨てたことによってせいせいしたものもある。しかし、“いずれいなくなってしまう、いずれ消えてしまう”といったことは全てにおいて共通したこと。そして、この一つをとってみるだけでも、すべては等価なのだ。

時間には限りがあるので、“関わる・関わらない・放っておく”といった選択肢は接する上で避けては通れぬ問題だが、対象の優劣や上下といったことには、あまり関心がない。

諦観とは違うし、私はニヒリストでも刹那主義者なつもりもないが(だって、それってカッコ悪い)、むしろ、明るく前向きに生きているつもりだ。

もちろん悟りを開いているわけでもないし、私の気持ちの根本にあることは、私の周りのすべては流れてゆく、消えていってしまうもの、ということだ。

永遠や普遍や不変を求めて、夢想し努力することって、莫大なエネルギーを使うわりには、決して報われることのない虹の麓(ふもと)を追いかけるような行為だと思うのだ。

もちろん、虹の麓を追いかけることは、ロマンティックなことだとも思うので、そこに価値を見出すか出さないのかは、人によって異なるところだと思う。

古本の話からとんでもない話に跳んでしまった。

私は“ゴーイング・マイ・ウェイ”、つまりマイペースだと言われているらしいが、そう呼ばれる背景には、このような考え方根底にあるからなのかもしれない。

記:2004/04/25

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