ミシシッピ・デルタ・ブルース(前編)

   

text:高良俊礼(Sounds Pal)

音楽 ルーツ

癖なのかそれとも性分なのか、感動するものや興味の惹かれるものに出くわすと、ついつい「調査」してしまう。

テレビや新聞での気になる報道、見たことのない生き物や、読んだことのない書物、人の名前、外国や異なる時代のことなど、日常にはない「おや、これは?」と気になる事象から、日常のちょっとした光景や、人の言葉のイントネーションまで、一度引っかかったら、とことんまで調べ上げて、知識として蓄えたくなってしまう。

人様はどう思うか分からないが、何にせよそうやって、興味が広がると同時に知識が深まる実感を、私は至上の幸福だと思って日々生きている。

「あぁ、この性質が、学生時代の勉強に対して作動してくれてたらなぁ・・・」と、思うことはあるがそれはそれ。人間には向き不向きというものがあったのだろうと、その都度自分を慰めている。

音楽に目覚めてからは、更にこの性質に磨きがかかった。

目覚めたきっかけは恐らく記事をお読みの大多数の皆さん同様、テレビやラジオや雑誌であるが、好きなミュージシャンのことが気になったら即「この人は一体誰のどういう音楽に影響を受けたのだろうか?」という疑問が次々に沸き上がり、気が付けば私は、最初に聴いた音楽の“出発点”からいつも遠くに旅立っていた。

ブルース ミミシッピ・デルタ地域

20代の最初の頃に辿り付いた場所は、戦前のアメリカ深南部。

一説によると「ブルース誕生の地」と呼ばれるミシシッピ州デルタ地帯だった。

戦前のアメリカ南部、そこは「古き良き時代」の幻想とは裏腹に、奴隷解放後も小作農として働く黒人達の、貧困や差別にあえぐ姿がそこかしこに見られた地域であった。

彼らは僅かばかりの賃金を得るため、農園内のほったて小屋に住み、荒地を耕して作物を作る、そして綿花の季節には延々と綿花を摘む。その繰り返し”だけ”の生活に明け暮れていた。

中には、そんな絶望の日々から抜け出して都市部に来たが、そんな彼らにはもれなく低賃金の肉体労働者としての生活や、或いは社会の裏側の住人としてのハード・ライフが待ち受けていた。

そして、いずれの生活も「いつどこで、どんなトラブルに巻き込まれて命を落としかねないリスクの高さ」が付いて回った。

チャーリー・パットン サン・ハウス

伝説のデルタ・ブルース・セッション1930

アメリカ南部のブルースは、そんな環境の中で人々が、辛く苦しい気持ち、重くやるせない気持ちをリズムと旋律に乗せて生み出したもの、だったのだ。

南部の農園で、人々の心を時に慰め、時に励まし奮い立たせたブルース。

そのブルースを、ミミシッピ・デルタ地域で「ひとつの音楽スタイル」として完成させた最初のブルースマンが2人いた。

チャーリー・パットンとサン・ハウスである。

記:2014/09/26

>>ミシシッピ・デルタ・ブルース(後編) に続く

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●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

※『奄美新聞』2009年8月27日「音庫知新かわら版」掲載記事を加筆修正

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