奄美・歴史探索の旅 2

   

text:高良俊礼(Sounds Pal)

「奄美・歴史探索の旅」の続きです。

処刑場 名瀬村

さて、「山登り」の話をする前に、恐らく多くの読者の皆さんが気になっているであろうこの河口近辺の“いわく”について解説したい。

昔、明治のはじめぐらいの頃まで、この河口には「仕置き場」、つまり処刑場があった。

当時の区画で言えば丁度この辺りは名瀬村の「村はずれ」であり、近隣の集落から繋がっている山道が、ちょうど落ち合う場所でもあったので、地理的な整合性がある。

処刑は新川を挟んだ対岸で行われたという。

罪人にとってこの川は文字通り「生きて帰れぬ三途の川」であったろうし、民衆も「川の向こう」に異世界を感じ、大いに恐怖したことであろう。

奄美最後の打ち首

刑場だった頃の有名な話として明治7年「奄美最後の打ち首」といわれた女性囚「ヤス(ヤシ)」の話がある。

名瀬の富豪の家で、家人(ヤンチュ)として働いていたヤシが、主との密会現場をその主の家の子に見られてしまい、それを殺した罪で斬首されるに到ったという話である。

処刑の当日の新側淵には大勢の見物人が押しかけ、竹矢来(たけやらい)が張り巡らされたその先で、白装束に身を包み、長い黒髪を振り乱したヤス(ヤシ)が、役人によって首をはねられた。

その瞬間彼女は目をカッと見開き、無念の形相で地に転がり落ちて、口に白砂を噛んだ。

見物人は打ち首という残酷な刑の恐ろしさと、ヤス(ヤシ)のあまりの形相の凄まじさに身震いし、震え上がったという。

債権奴隷

この後、彼女に対しては同情的な意見から様々な風説がそれとなく広まった。

その背景には、債権奴隷として売られ、ほとんど一生報われることのない労役に務め、また、若い娘であれば、主の言うがままに肉体までも提供せざるを得ない家人という悲しい身分の人たちに対する「あわれの気持ち」があったろうと思う。

刑死者の墓

いずれにせよ、このヤス(ヤシ)の処刑を最後に、新川河口でそのような刑が執行されることはなくなったが、戦後のある時期まで、ここには「刑死者の墓」というものがあった。

古老の証言によると「ねずみ色の囚人服を来た人たちが何人か連れられて来てね、その墓の近辺で清掃作業みたいなことをよくやってたよ」ということであるが、私が物心付いた頃には既に名瀬の街も開発が進み、新川近辺の地形も都市整備によって大きく変わったのだろう、刑場や刑死者の墓の痕跡など、今は見る陰もない。

しかし、道路脇に詰まれた「古い石群」(写真)のことや、先に述べた“いわく”のあれこれを検証できる“何か”がもしかしたら人知れず山中にあるのではないかと思い、登山口なきその山をまずは「勢いで這い登ってみる」ことにした。

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参考文献

今回の記事を書くにあたり、古老の証言以外にも、名越護『奄美の債権奴隷 ヤンチュ』と、籾芳晴『碑のある風景』を参考文献として、その証言の裏を取った。

奄美の歴史に真剣に興味のある方は、まずはこの2冊の本を熟読することを強くオススメしたいと思う。

「奄美・歴史探索の旅 3」に続く。

記:2014/10/20

 

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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