奄美・歴史探索の旅 5

   

amagumosky

text:高良俊礼(Sounds Pal)

「奄美・歴史探索の旅 4」の続きです。

「おがみ山」という山がある。

市街地を一望できる立地と、よく整備された遊歩道やいくつかの広場をいくつか持つこの山は、古くから市民の憩いの場として親しまれ「名瀬のシンボル」とも呼ばれている。

歴史を紐解くとこの山は、名瀬がまだ街になる前の集落だった頃の祭礼の場であり、特に日を定めて山の神を拝む神祀りが行われていたという。

また、名称に関しても「拝み山」か「御神山」かで時たま論争が巻き起こる。

いずれにせよ、島の人達にとっては精神的に深い意味を持つ場所であり、後の世に至るまで大切にせねばならない山であることは間違いないのだが、私にはかねてから気になることがあった。

山そのものが御神体

このおがみ山、実はひとつの「山」ではなく、名瀬の背後にそびえる山地の、尾根の先端の部分に過ぎないのだ。

つまり山の中腹が広場になっていて、そこには昭和天皇行幸碑、復帰運動の父と呼ばれる詩人、泉芳朗の銅像、徳之島出身の第46代横綱、朝潮太郎の碑など、近代を象徴するようなモニュメントはあるが”それ以前”が見えてこない。

かろうじて遊歩道の入り口を少し登った所の脇道(これがまた実に判りづらい)に「山神」と彫られた一基の石碑があるが、どうも何かが全体的に“薄い”のである。

おがみ山を一通り散策したその足で、私は港の方に下った。

そして海から山をよくよく観察してみた。

名瀬の北面、真正面の背後に鎮座する山は永田山、そしておがみ山がその山の玄関口のように街にせり出している。

分かった!

「おがみ山」の信仰の基となるのは、その背後にそびえる永田山で、かつてはこの山を御神体として礼拝するための“拝み”が行われていたから「おがみ山」なのではないだろうか?

「山そのものが御神体」という考えは、例えば奈良の三輪山など、古神道の名残りを残す神社などでよく見られる。そして奄美古来の信仰の形態は、古神道と共通するものが非常に多い。

環境学としての神の概念

少し視点を変えてみると、南西諸島には「島立て」という概念がある。

これは生活の中での“神と人”との関わりを示す精神的な世界観だが、ざっくりと言えば
『神が人と関わる時、まず“タカモリ”と呼ばれる神聖な山に降りてくる。そして集落の聖地へ依り、神の道を通って海に至り、そこから“ニラ・イカナイ/ネリヤ・カナヤ”へと帰ってゆく』
というものだ。

「神が降りられる山、帰られる海を大切にして、聖地(泉、川、祭礼の場等)を常に清めて、祭日は心を込めて神をもてなさねばならない」という集落のちょっとしたルールは、結果として豊かな自然を守り、生活に必要な恵みを与える海や山、水源を大切にするという循環思想を育んできた。

言ってみれば島の“神”の概念は環境学でもある。

そういえば、祖母がかつて墓参りの時、墓地がある永田町の奥を指さして「あれが永田山、あの山が一番大事な山なのよ」と言ってたことを、ふと思い出した。

となれば話は早い、周囲の「永田山のことについて知ってそうな人」に、聞き込みの開始だ。

ウガンジョ

最も詳細な話をしてくれたのが大叔母で

「そうねぇ、あそこの上には神社があったのよ。参拝の日というのがあってね、その日になると名瀬のあちこちから人が集まってきて永田山に登ってお参りしてたね。戦後もしばらくの間はやってたと思うよ。今は廃れたけどねぇ・・・」

更に詳しく聞くと、戦前から戦時中は、出征兵士の武運長久を祈願する場所と定められていたが、多分アレは元々そういう性格の場所ではなく、集落の守り神として相当に古い時代からあった神様だろう、と。

「私もじいちゃんに連れられて行ったことがあるね、確かおがみ山から入って山道をずーっと歩けばその“ウガンジョ(拝所)”があったはずだよ」

「そのウガンジョの目印は?」

「山に電波塔が建ってるあの辺りだったんじゃないかと思うがね、道がまだあるかどうか・・・」

そこまで聞いて、私は登ることを決意した。
当然だ、そこに山があるから。

奄美の歴史探索の旅 6」につづく

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

記:2016/11/26

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