本・情報について雑想

      2017/05/30

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雑想1

吉田松陰の松下村塾では、『孟子』、『資治通鑑』、さらには『農業全書』や『経済要録』などがテキストとして使用されていた。

もっとも、画一的にそれらの本をテキストとして熟生に与えるのではなく、塾生の個性や適性に応じて選択されていたようだが。

松下村塾での授業は、字義や内容の解釈ではなく、書かれた内容を題材に、考え方や問題意識を展開していく教育スタイルだったようで、講義に加えて「会読」「討論会」「課業作文」が組み合わされていた。

今で言えば、大学のゼミのような形式だったのかもしれない。

当然、ディスカッションをする前提として、ひたすら書物を読み込まなければならない。そして、読み込んでいくうちに、必ずポイントとなる重要な箇所が出てくる。

今では「ポストイット(=付箋)」という便利なものがあるから、紙面の上にペタペタと付箋を貼れば、後で読み返すときには便利だ。

ところが、当時はそのようなものはない。

だからといって、ページの端を折ったり、書き込んだり、ラインマーカー(そんなもの当時は無いが)で線を引いたりも出来ない。なにしろ当時の書物は貴重なものだったのだから、傷つけたり、汚したりなどは出来なかったのだ。

その場で書き写す、という手もあるだろう。

しかし、通読中の書写は、読書の勢いを削ぐ上に時間もかかる。

いちいち感銘を受ける度に立ち止まって書写を繰り返していると、肝心な「読書のリズム」が狂ってしまう。

その上、もしかしたら、これから先にもっと重要な内容が展開されるかもしれないのに、全体からしてみれば些末な事柄にとらわれてしまって、その箇所の書写に心血を注ぐことは、時間と思考の無駄になる可能性もある。

通読し、全体の概要を把握した後に、ポイントとなる箇所を拾い読みをするのが、もっとも効率の良い方法だと思うし、私自身もそのような読書スタイルだ。

だが、目印をつけておかないと、読み終わった後に自分が感銘を受けた場所が分からなくなってしまう。

ページを折るのが駄目で、書き込みもダメで、ポストイットなどもない時代に、では松下村塾の塾生はどのようにしてシルシをつけたか。

面白いことに、「唾」なのだそうだ。

いらない紙をペロッと舐めて、重要だと思われた箇所にペタッと貼る。そうすれば、紙同士がくっつくし、はがした後も本に跡は残らない。もっとも紙は少し痛むかもしれないが。

このような方法で、熟生たちは貴重な本を有効に使い、勉学に励んでいたのだ。

雑想2

さて、昔ほど本が貴重品ではなくなった現在。

あくまで私の考え方の場合だが。

「本は安い・なので消耗品・だから、どんどん痛めつけよう」だ。

私も通読しながら、気になるところにはシルシをつけている。

で、読了後はシルシをつけたところを読み返したり、メモを取ったり、「このフレーズは使えるぜ!」と思ったところは、手書きでノートに書き写している。いや、手書きで書き写していた、というべきか。

学生の頃はマメにちょっと洒落たノートに書き写していて、それを常に持ち歩き、暇があれば何度も読み返していたが、最近はめっきりそういうことは面倒でやらなくなってしまった。

一時期はポスト・イットをポケットに忍ばせて、気に入った箇所や、タメになりそうな箇所にはペタペタと貼りつけていた(もっとも後で読み返してみると、何で自分はこんなところにシルシをつけたのか理由を思い出せないことのほうが多いのだが…)。

ところが、私が読書をする場所のほとんどがトイレか風呂か電車の中だ。いちいちポストイットを持ち込むのは面倒くさい。というか、忘れる。

だから、最初の頃は律儀にペタペタと貼り付けていたのだが、そのうち面倒臭くなって、ページの端を折るようになった。

ページを折るほうが、ポスト・イットを貼るよりも、アクションの数も、労力も少ないので、読書のリズムも乱れない。

もとより「本は消耗品」だと考えているので、ページの端を折ることには何の抵抗もない。ときには破ることだってある。

もっとも例外はある。

写真集や絵本や装丁が美しい本はその限りではない。自分の中では観賞用・資料用として位置付けている本にはそのようなことはしない。

私は図書館へは調べものをする以外は滅多に行かないし、人から借りて読むことも滅多にない。

「これ読んでくれ」と直接手渡された本に限っては読むことにしているが、手に入れられる本を貸してくれと頼んだことはほとんど無い。

人から借りた本のページの端も折ることが出来ないし、汚すまいと気を遣うぶん、読書に集中出来なくなる。

だから、どうしても私に読んでもらいたい本がある人がいれば、貸すなんてケチなことをせずに、その本、頂戴ね(笑)。ズーズーしいとお思いですか?

うん、確かにそうかもしれないが、私の場合は、この人にコレは絶対に読んで欲しい!聴いて欲しいと思った本やCDがあれば、もう一冊なりもう一枚を買ってプレゼントすることにしていますよ。

だって相手の時間を数時間を奪うことは確実なのだから、その人にとっては、海のものとも山のものとも分からないものに「俺の気にいったものに時間を割け、で、返せ」じゃ、ちょっとズーズーし過ぎると思ってしまうのだ。

そんなわけで、本に関してはほとんど自腹で手に入れるので、折り曲げることにも破くことにも捨てることにもまったく抵抗はないのだ。

問題なのは中身。中身が血肉になれば、焼こうが喰おうが破こうが、俺の所有物なんだから、俺の勝手だろ、と思っている。

何故なら、本ほど安いものは無いと思っているから。消耗品だとすら言える。

雑想3

そう、本は安い。

文庫・新書は1,000円を切るし、たいていのハードカバーでも2,000円以内で購入出来る。

これは、安い。

自分が苦労して経験なり失敗なり身銭を切らずとも、著者の経験やノウハウを買えるのだから。

私は仕事が終わると、よく飲みに行く。

自分で勝手に「秘密基地」と呼んでいる飲み屋が都内に数軒ある。

「秘密基地」に行くと、マスターや常連の人とカウンター越しで様々な会話を交わすのだが、時には自分にとっては、非常にタメになる会話に発展することもある。直接仕事に結びつく情報を得られることも稀にある。

行きつけのところは、かなり安く飲ませてくれるので、一回の飲みでだいたい4~5,000円のお勘定。

帰宅時間は、たいてい終電後になるから、タクシーを使うことになることが多いのだが、深夜の割り増し料金だと、だいたい自宅まで6~ 7,000円かかる。つまり飲み代とタクシー代で、約1万2,000円前後を使うわけだ(実際はその前に食事をしたりするので、もっとかかる)。

一回の「飲み」が1万数千円。で、その「飲み」において、貴重な情報や、自分のためになるノウハウや、将来タメになると思われるタメになりそうな話が聞ければ、安いものだと思っている。酔っぱらって楽しい気分になれるというオマケ付きだからね。

飲み屋で得られる情報も、自分で本を読んで身につける情報も私の中では等価だ。

だとしたら、1万数千円(行く度に貴重な情報が得られるワケではないから、もっとかかるけど)で得られることと比較すると、1,000円や2,000円で得られる情報のほうが、ものすごくトクだと考えられるわけだ。

本に書かれている事柄にも、飲み屋で聞ける商売の話や貴重な経験談に共通していることがある。

たった一つの情報でも「とてもお金がかかっている」ということだ。

ノンフィクションの本があるとする。

その本一冊が書き上げられるまでは、取材費や旅費など、ハンパじゃない経費がかかっているわけだが、それを我々は一冊千数百円で読むことが出来る。

これを安いと言わずして何といおう。

たとえば飲み屋でしばしば耳にする、会社や店を何度も潰したことがあるという人の失敗談、いまだに塀の向こうで生活をしている友人の話、犯罪でしょっぴかれた話、ホストに狂った中年女性の共通した哀れな末路、外部には絶対に漏らせない某メーカーの欠陥商品についてなどなど。本人は笑い話として語っているつもりでも、その笑いの陰には、とてつもない苦労と莫大なお金の動きがあったはずだし、ひょっとしたら小説よりも面白いドラマティックな出来事があるいはあったのかもしれない。

このような話を、毎回というわけにはいかないが、一晩の飲み代とタクシー代を合わせた分の料金=1万数千円で楽しめ、得られるのなら、安いと言わずとして何と言おう。

本に比べれば随分と高いんじゃないか、という人もいるかもしれない。

だが、それは違う。

生身の当事者から聞く話は、迫真度、リアリティ、ライブ度が全然違う。

「言葉の情報」の他に、雰囲気や表情、声色や喋り方など、情報にリアリティと説得力を持たせる「文字」以外の要因がくっついてこちらに伝わってくるので、納得度がまったく違うのだ。

本の場合だと、「作者の考え・事実・情報→文字・言葉に翻訳→紙にアウトプット→校閲・構成・編集→読者が読む→理解・納得(あるいは疑問)」
という、文字と文章、そして本という形態に落とし込む過程が入り込む。

その間には、当然編集側の手も加わるので、規定量がオーバーすれば削除される情報もあるし、すっきりと読みやすい形に改良されるにせよ、「ナマ感」は薄れることは確かだ。

ところが、直接当事者から聞く場合は、「当事者の話→聞く→理解・納得」と、経路がいたってシンプルだ。

もし理解出来なければその場で聞き返して、こちらの分かる言葉でもう一度説明を求めることも可能だし、納得出来ないことがあれば、議論をふっかけることも可能だ。

本ではそれは無理だろう。

よって、「情報の流通過程」のシンプルさと、当事者との「コール&レスポンス」が可能な分だけ、本の値段よりも割高になってしまうが、それは情報に支払う「対価」なのだと思えば致し方ないこととも言える。

本はそれが出来ない分、安いのだと考えれば、自分の中で両者の役割分担とコストの意識がはっきりと割り切れる。

いずれにしても、自分の血肉になる「情報」は身銭を切らなければ絶対に身に付かない。

それでも、本は高いと感じる人もいるかもしれない。自分の小遣いや給料と比較した上での考えなのかもしれないが、私の言っている「安い」とは、自分の経済事情と比較した上での「安さ・高さ」ではなく、あくまで「情報の原価」としては破格だということなのだ。

雑想4

ナマの声といえば、、私は仕事柄、あるいは趣味柄、あるいは性格柄(気に入った著者がいれば、タイミングや機会さえ合えば、こちらから押し掛けちゃうから)、著者と会って話す機会が普通の人よりは多いほうだと思う。

ハッキリ言って著者の話すことのほとんどは、本に書かれていた内容と同じことばかりだということが多い。

当然のことながら、著者や作家だって、そんなにたくさんネタを持っているわけでもないし、本人の考えやスタンスがハッキリしていればいるほど、強調したい「主張の根幹」はいたってシンプル。必然的に同じフレーズを繰り返さざるを得ない。

ところが、やっぱり違うんですねぇ。たとえ、既に本で読んだ内容を繰り返されただけだとしても説得力が全然違う。

本人の生の声で語られる内容は、説得力も、こちらの納得度も全然違う。意見の主張の真剣度も話の抑揚で分かるし、何より、本のように一方通行ではなく、こちらからも意見を返せる。そう、意見のキャッチボールを交わせることが一番嬉しいし、理解度が深まるのだ。

当事者に会って話を聞くことが、実は本を読むことなんかよりも一番好奇心を満たすことが出来る方法なのだ。

もちろん、多くの人はそこまではなかなか出来ないし、機会もそれほ多くは無いと思うが、それが出来ない人たちのために「本」という安価で便利なメディアがあるのだし、著者にもよるが、講演会のようなイベントがあるのだと思う。

しかし、ただ部屋の中で本を読むだけなのでは、ツマラないし、ひょっとしたら誤解をしている箇所もあるかもしれないし、作者の考えたこと以上に思いこみと妄想が広がり過ぎてしまうことだってあるかもしれない。

本を読むことは決して悪いことだとは思わないが、寺山修司が「書を捨てよ、町に出よう」と言った気持が分からないでもない。

私はせっかく生きている以上は、たくさんのことを経験したいし、たくさんのことを知りたいと思っている。

しかし、自分の経済力やスケジュールや年齢的なものなど、諸々の制約で経験出来ないことも山ほどある。

さらに、犯罪にも手を染めたくない。そんな度胸も無いし。

つまり、やりたいことは多くても、絶対的に経験が不可能な事柄も多いわけだ。
なので、「原則としては実体験を重んずる。しかし不可能な体験の補填作業は読書で。」というのが生活の信条のようなものになっている。

たとえば、私のササヤカな夢の一つとして、「零戦を操縦してみたい」というのがある。

しかし、どう考えてもそれは無理なことだ。

だから、本を読む。図面や資料を手に入れる。様々な角度からの情報を頭の中でミックス・ブレンドして、少しでも零戦を操縦しているような気持になるしかない。

さらに、著者の講演会に出向いて実際に著者からのナマの声を聴いて想像を逞しくする。

こと、故・坂井三郎氏に関しては、著書のほとんどを読んだし、映画も観たし、実際に講演会にも何度か足を運んだ。

これで、私の願望が満たされたとは思えないが、ただ悶々としているよりは数段マシだと思っている。

雑想5

そう、気になった著者がいれば、積極的にサイン会や講演会に出向いて生の本人に会ってみよう。

どうせ、講演会で話される内容と本で書かれている内容は一緒だろうから、時間の無駄と仰る向きもいるかもしれないが、そんなこた当たり前だろうが。

記憶の強化、読んだ本の内容理解の強化(復習)、ナマで語られる声で味わう感動、発散される空気、そういったものを味わうために出向くのが、講演会に出かける理由だとぐらいに考えたほうが良い。

本には書かれていない新事実や「ここだけのハナシ」も、たまには得られることもある。そんなときは大いにトクをしたと思えばよい。

音楽もセックスもナマが一番気持ち良いが(でも避妊はしようね)、本だってナマの著者に会うほうがたくさんの刺激と興奮を得られるのだ。

雑想6

話しがまったく変わるが、私は現在メールマガジンを二つ発行している。

二つともジャズに関してのメルマガだが、趣旨を分けて、一つはジャズ全般について、そして、もう一つは、ジャズの名盤紹介の内容にしている。

で、読者からはよくメールをいただく。

ほとんどのメールの内容が、激励や感謝のメールなので、読者からのメールに目を通すことがメールチェックする際の楽しみの一つになっているのだが、中には勘違いなメールも多い。

内容がジャズのアルバム紹介なだけに、「私は本当に良いアルバムだけしか持っていたくないのです。だから本当に良いアルバムだけ教えてください。」とか、「内容を聴いてから買いたいので、音楽ファイルを添付して送れ」だの、そういったメールを寄越す手合いも中にはいる。

私はCDショップやレコード会社の営業じゃないんだから、CD販促のために何でそんなことまでする必要があるんだ馬鹿野郎と思うし、「本当に良いアルバム」ったって色々だろう。

もちろん私が感じた「良いアルバム」を自身を持って紹介しているつもりだが、人によっては「良いアルバム」ではないかもしれない。

あとは、私の文章や行間を読んで、購入する・しないは判断して欲しいし、私の役割はあくまでガイド役。それ以上でもそれ以下でもない。

不遜な言い方をすると、読者はロバ。私はロバを水たまりに連れてゆく案内人。水たまりの前で水を飲むのも飲まないのも、あとはロバの自由意志でしょう。飲む意志の無いロバに無理矢理、水を飲ますことは出来ない。

最終的な取捨選択や意志決定、それにアクションぐらいは自分自身の意志で起こして欲しいものです。

このような見当はずれなメールが時折来るような背景には、この「メルマガ」というメディアがインターネットを媒介にしているからなのだと思う。
インターネットは、言い方悪いが、パソコンの前に座ったまま、マウスをクリックしていりゃ、お金もかからず、座ったまま自動的に「情報」が入ってくる便利なメディアという幻想を抱きやすいのだろう。

懸賞サイトで、簡単なアンケートにマウスをクリックし、自宅の住所をキーボードで打ち込んで送信すれば、ひょっとしたら商品が送られてくるかもしれないし。

インターネットは、「ラク・タダ」が基本のメディアなのだ、と認識している人も少なくないのではないか。

だから、そういった「勘違いさん」が生み出され、私のところにも「甘ったれメール」が来るのだろう。送られてくる情報は、画面にディスプレイされる文字だけだが、書いている私は生身の人間だ。

ところが、送られてくるメールの文面がどうも人間を相手にしているようには感じられないのだ。

第一、差出人の名前すら書かれていないのだ。

用件だけ。

べつに季節の挨拶や、見え透いたオセジのような文章を文頭につけて、メールの末尾には「草々」とか「かしこ」などといった言葉をつける必要はさらさらないが、それでも、このような「用件だけメール」から漂ってくる共通した雰囲気は、自動的に回答してくれる機械相手に質問をしているようなニュアンスだ。

実は全然そうではないのだが、たしかにインターネットは「匿名性」の強いメディアだと勘違いしやすいし、それが発展すると、相手は生身の人間ではなく、単なる目の前にディスプレイされた文字なのだと勘違いを起こしてしまうのだろうか?

パソコンの前に動かずに座ったまま、マウスを操作して、必要とあらばキーボードで文字を打ち込んでいれば、自動的に必要な情報が「タダで」自動的に返ってくるという錯覚。

自分の「おかぁさん」にお願いして、スプーンで食べ物を口の中に運んでもらうのならともかく、何の面識もない相手にまで、口をアーンして「おいしい食べ物を食べさせてね」と要求するようなメンタリティは「甘ったれ」、そして「勘違い」もはなはだしい。

だが、仮に私が懇切丁寧にメールの質問に回答したとしても、私の送った情報は決して彼らの血肉にはならないだろう。

先にも書いたように、自分の血肉になる情報は、それ相応の足と金を使わないと得られないのだ。

エッセンスだけを吸収したい気持ちは分かるが、だからこそお金を遣って、実際に自分の足でショップの店頭に赴き、あれこれと試行錯誤を繰り返し、時には失敗をして悔しい思いをするという過程が必要なのだ。

もちろん、私のメルマガは、CD購買に費やす無駄な時間とお金を少しだけ軽減させるぐらいのことは出来るとは思うが、最終的にはパソコンの前に座りっぱなしじゃなく、実際に店に行くなりして、一人一人が実際にアクションを起こして、自分の耳で判断して欲しいわけだ。 って、何を当たり前なことを書いているんだ、俺は。

俺は、アンタの「ママ」じゃないんだからさ、何から何まで世話してもらおうなんて思うなよ、気持ち悪いなぁ、この甘ったれ野郎め。

と、メールで返信したいのは山々だが、後が怖いので(笑)、ここに書くだけにとどめておこう。

雑想7

パソコンやテレビをつければ、自動的に情報が流れてくるし、情報の山に埋もれて生活しているのだと錯覚する人は、今後はもっと増えてくるだろう。

しかし、「誰もに等しく与えられている情報」は本当の情報ではない。

もちろん、報道されたり配信されている内容が嘘だと言っているのではない。ほとんどが事実だろう。しかし、報道されている内容は、出来事の「最初から最後」まででは無いということ。

最近の事件を引き合いに出す。たとえば、稲垣吾郎の逮捕、NYのテロ。これは事実だ。一次情報だからね。

しかし、その背景やウラ事情に関しての憶測といった二次情報が事件後に、インターネット、ラジオ、雑誌、テレビと様々なメディアを通じて流されるわけだが、これらの「情報」すべてを真に受けない「正気を保つ」ことこそが重要なのだと思う。

ここからが、その人の情報を扱うセンスになってくるのだと思うが、たとえば、意識的に情報をシャット・アウトしてみる勇気も必要なのではないだろうか。

「岡目八目」という言葉がある。

囲碁や将棋を対戦している者同士は、盤上と睨めっこ。ウンウンと唸りながら、次の妙手を考えている。

しかし、彼らよりも、近くを通りかかって盤上を遠くからサッと眺めた人のほうが、良い手が閃くといった意味だが、こと情報に関しても同じことが時には言えるのかもしれない。

たとえば、太平洋戦争も末期、日本の本土は度重なるB-29の空襲に脅かされていた。

日夜飛来するB-29の編隊を見上げながらも、新聞、ラジオは「日本は勝っている」という報道ばかり。

目の見えない老人がいた。

老人がつぶやく。「また空襲か。このままじゃ、日本は早晩負けるな。」
それを聞いた孫が、「おじいちゃん、そんなことないよ。新聞もラジオも日本は勝っているって言っているよ」。

老人が孫に言う。

「勝っている国の上空を、我が者顔に爆撃機が飛べるわけないだろう。」

目の見えない老人の言葉、考えてみれば、とても当たり前なことなのだが、こういう正気の判断すら出来ないぐらいに当時の国民は誤った情報漬けにされていたのだろう。

いささか、極端な例かもしれないが、時には近視眼的にリアルタイムに続々入ってくる情報ばかりを相手にしていると、ものごとの本質がかえって見えにくくなる可能性だってあるのだ。

だって、NYの連続テロの報道、テレビを見続けていれば、少しずつ新たな情報(のようなもの)は入ってくるが、では、肝心な犯人や黒幕は誰なのかは、これを書いている2001年9月末の時点では、いまだにハッキリしていないではないか。

私が知りたい情報は「テロの犯人(黒幕)」は誰なのか?これに尽きる。

ところが、事件以来、ものすごく膨大な量の報道がされてはいるが、ウサマ・ビンラディン氏だという決定的な確証を掴んだという報道は今のところなされていない(繰り返すけど、2001年の9月末現在の話しだよ)。

しかし、ほとんどの人が、ビンラディン氏だと思っているわけでしょ?

じゃあ、どうして、そう思っているの?

「アルカイダ」という組織は、クリントンがトマホークミサイルを80発もぶっ放したほどの危険なテロ組織だということを知っていたから?

アメリカ大使館を過去に爆破したことがあるから?

違うでしょ?「テレビがそう言ってたから」でしょ?

テレビをつければ、今、ニューヨークではビンラディン氏の顔に照準を当てた絵柄のTシャツが売れていますとか、ビンラディン氏の顔をライフルで撃ち抜いて得意になっている人の写真とか、そんな報道ばかり。

こんなもん情報じゃないし、むしろ太平洋戦争の日本の大本営発表の放送に洗脳されていく過程を見ているようで、なんだか寒々しい気分になってくる。

NYのテロのことが気になって、会社を休んでテレビの前にかじりついていた阿呆がいたらしいが、一日中テレビの前にかじりついていたって、本当の情報は手に入らない。

国際情勢の動向に興味を持つ自分に酔っているようならば、そいつは度し難く救いがたい。

サッカーや野球と同様、やっていることは、スポーツ観戦と同様なレベルだよ。「心配」「恐怖」というエンターテイメントのネタに飢えているだけなんじゃないのか?だとしたら随分と残酷な話だ。

今回の事件の大筋を押さえたら、一度テレビのスイッチを消して、事件の本質や背景などを考えてみる。

地図を広げて、中東付近の複雑な国際情勢を調べて自分なりに考えてみる。

そう、空襲下の盲目の老人のように、一度自分で目を閉じてみる。

こういう過程も実はすごく大事なんじゃないのかな、と私は思う。

もっとも私は今回のテロ、タリバン派の仕業ではないと主張しているわけではないので誤解なきよう(「彼ら」がやった、という可能性は私の中でも捨てきれないでいる)。

私が言いたいことは、確証のないまま、自身の考えや判断を停止した状態で、ブッシュ大統領の「報復にはあらゆる手を使う」という強気な演説に「そうだ、そうだ!」と拳を振り上げる姿勢が、なんだか寒々しいなと思っているということ。

そして、21世紀になっても、インターネットなんかが普及した世の中になっても、ぜんぜん「情報の時代」なんかじゃなくて、結局一種類の「強い情報(=繰り返し流される情報)」だけが大勢を支配しているんだな、ということ。

雑想8

そう、いくらテレビやインターネットといった「情報流通の構造的設備」、つまりハードが進化しても、受け手の意識(ソフト)進化しない限りは、同じことなんだなと思う。

積極的に「知ろう、考えよう」という意識がない限りは本当のことなど知れるはずなどない。

ただお茶の間に座っていればテレビから、ただモニターの前に座っていればパソコンから、情報は流れては「こない」。

引退した政界の黒幕が、別荘の庭で鯉に餌をやっているところに、諜報員が次々と情報を持ってきてくれる。

大部分の人は、そんなオイシイ環境ではないことは確かだ。また、そういうご身分の人たちは、ほんの一握りだろうし、彼らは座っているだけかもしれないが、情報に対する高額な「対価」はきちんと払っているはずだ。

また、そういう情報ルートを築き上げた「結果」、座っていても自動的に情報が入ってくるようになっただけの話し。

多くの人は、金魚に餌をやっていれば、自動的にオイシイ情報が懐に飛び込んでいるような情報網は持っていないだろうし、そうした「環境整備」もしていないでしょ?

マウスをクリックするために座っているだけでは、情報は入ってこない。オイシイ話しが自ら懐に入りこんでくるほど、世の中甘くはない。

だから、本当のことを知るためには、どうしても足を使わざるを得ないし、お金だって投資する必要もある。

そこまでして欲しいと思わない人も、せめて情報の取捨選択が出来るぐらいの「正気」を保つ努力はするべきだと思う。

では、どうすれば良いのか、というと、それは個人が各々で考えるしかないだろう。

当たり前だが。

ただ一つ、安価な投資で、誰にでも出来ることを一つ可能性としてあげるとすると、本を読むこと、が、読まないよりかは幾分かはマシなのではとも思う。非常にチープな案で申し訳ない。しかし、「学び続ける」姿勢は大切だ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶのだという。

たしかビスマルクの言葉だと思った。歴史を読書を通して知ると、もちろん全てではないのだが、色々な事件や紛争に当て嵌めて考えることが出来る分、「判断の選択肢」が増えるというメリットがある。

織田信長と一向一揆の対立、こと信長軍と雑賀衆との戦い。

張作霖を関東軍が爆殺した「満州某重大事件」。

50年の歳月が経ってから明らかになってきた真珠湾攻撃に対してのアメリカ政府の事実。

白人のインディアン虐殺の歴史。

湾岸戦争にいたるまでの過程。

大国アメリカは、これまでいかにして他国や他民族に「因縁」をふっかけ、「戦勝国」となってきたのか。

まだまだあるが、こういった歴史を知った上で、今回のテロ事件を見ると、考察の幅が少し増えるのかもしれない。

もちろん、これは私にとっては「使えそうな情報」なのかもしれないが、ほとんどの人にとっては役に立たない「クズ情報」なのかもしれない。

だから、一口に情報といっても、重要度や利便性は人それぞれなわけで、いちがいにどうすれば良いと言えるものでもないのだ。

しかし、アンテナを広げようという意志、知ろうと努力する姿勢、何かの出来事をキッカケに掘り下げて勉強してみようとする意志は非常に大切だし、尊い。

しかし、大部分の人は、頭では分かっていてもなかなか実行に移せないでいるのだろうな。

これからは、「貧富の差」と同じぐらいの勢いで「情報を持つ者、持たざる者」の差が、ますます広がってゆくのだろうな。

いや、もう既になっているけどね。

吉田松陰の松下村塾の時代と比較すると、現在ははるかに本は廉価で一般庶民の手に届きやすいものとなっている。

それでも、本を高いと感じている人、投資することに躊躇いを感じている人、本来は一般家庭にはなかなか置かれないような資料や文献を置くべき図書館に、飯島愛の自伝のような俗っぽいベストセラー本を平気でリクエストして、取り寄せてもらってから読もうというメンタリティの持ち主の方、どうぞ好きなだけケチッて下さい。

記:2001/09/30

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