コミュニケーション考

      2016/01/30

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人前で音楽を演る機会を持っているからというわけでもないが、表現が伝わる、伝わらないといったことには敏感にならざるを得ない。

しかし、音楽に限らず、会話などの日常のちょっとしたコミュニケーションの場面においても、本当に自分の意図したことが伝わっているのだろうか、逆に、相手の意図を自分はきちんと汲み取っているのだろうかと、考えることも多い。

私はコミュニケーションにも「スキル(技術)」が必要だと常々思っている。

この「スキル」は、「会話能力」と置き換えて考えてもらっても構わない。

近所同士のお付き合い、友達同士の他愛も無い話から、口説き文句、企業間の交渉から国家間の外交まで、すべてのコミュニケーションには相応の技術が必要だ。

私は、“熱意”“誠意”“真摯”なだけで相手に臨んでも、こちらの意図が100パーセント相手に伝わるとは思っていない。もちろん“熱意”のような気持ちは必要最低条件なのかもしれないが、それだけではダメということだ。

「気持ちだけ」で通じると思っていること自体、甘えだと思う。まずは、ある程度の言葉を費やさねばならない。最初に言葉ありきだ。

自分を知らない相手に、自分自身をプレゼンテーションすること。

これは、はっきり言って疲れる作業だ。逆に同じ趣味を持つ者同士なら、多くの言葉を費やさずとも、極端なことを言えば「固有名詞」だけで会話ができる。しかし、それは二人の間に「共通の認識」があるからだ。

例えば、ジャズマニア同士の会話。
「パウエル!」
「いいねぇ」
「じゃあ、モンクは?」
「お、いいねぇ」
「マイルスは?」
「プレスティッジまでならOKよ」
「ビッチェズ、ダメか?」
「電気はダメ。」
というような会話は成り立つかもしれないが、双方が同じ知識を共有していないと会話にはならない。

単語だけで会話が成り立つというオメデタいケースは、言い方は悪いが「おたく」同士の狭い世界でしか通用しない。もっと、我々はコミュニケーションの技術を磨くことの重要性を認識すべきではないのか、というのが今回のテーマだ。

アメリカ人のコミュニケーションを考えてみよう。

文字通り「合衆国」なので様々な人種、民族が寄せ集まって出来ている国だ。ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント、ブラック、アイリッシュ、スパニッシュ、コリアン、チャイニーズ……。

当然、彼らの風習、嗜好、趣味、宗教、生活習慣というのは同じ国で暮らしていても、かなり違う。よって、一つの物事に対する認識、考え方も微妙に異なる。

一応、キリスト教信者の多い国ではあるが、それとて、黒人の多い地区、白人しか住んでいない地域では礼拝の様式はまるで違う。こういった環境下で、人々は交流し対話をしている。

バックグラウンドの違う者同士のコミュニケ-ション。

当然、前述した「おたく語」は通用しない。お互いを理解しあおうと、自分の考えを伝えようと、コミュニケーションには多くの言葉を費やさねばならない。また、遠回しな言い方は相手に真意が伝えられない。歯に衣を着せない直截的な会話。

これはアメリカ人ではない私の推測だが、アメリカ人のコミュニケーションは、「相手は分かってない」という前提から出発しているのではないかと思う。

英語は、まず主語から始まる。責任の所在をハッキリさせるためだ。
「誰が」どうなのかという立場をハッキリと表明した上で本題に入る。

これは私の偏見だが、日本語より英語の方が記号然としているし、情緒的ではない。

逆に言えばこの情緒の絡まぬ記号性の高い言語だからこそ、アメリカのような多民族国家に根付いたのではないか。

余分な憶測や誤解を生み出さないようなシンプルな構造。

かたや日本は、単一民俗国家だ(厳密にはそうではないが、大きな括りとして)。

生活習慣は我が家もお隣りさんもほぼ同じ。そういう環境が何百年と続いてきている。

台所に醤油や味噌を置いていない家庭はまず無いし、正月には雑煮を食べ、大晦日には年越し蕎麦を食べる。

つまり最初から「共通前提」が同じなのだ。

アメリカと違って、日本の場合は最初から「相手は分かっている」ことが出発点なのだと思う(いわゆる「文脈=コンテクスト」の共有が多いことから「ハイコンテクスト文化」と呼ばれており、その反対に欧米の多くの国は「ローコンテクスト文化」に分類される)。

英語は主語が文頭にないと会話が成り立たないが、日本語はその限りではない。別に「I think~」と前置きしなくても、「私が思う」ことは「他人も思う」環境だったのだ。

だから「男は黙ってサッポロビール」でよかったし、「沈黙は金」だったのだ。

労力の点から言えば、こちらの方がはるかにラクだ。

最小限のコミュニケーションで、こちらが考えていること、微妙なニュアンスを伝えられる。

便利だし、楽だし、素晴らしいことではないか。このような幸せな時代がずっと続いた。

アメリカやヨーロッパの各国では中学の授業から「ディスカッション」の時間が設けられている。自分の主張を相手に伝える訓練。相手の主張に耳を傾け、自己の考えを深める訓練。

ところが、日本の学校にはそのような授業はない。

だって、そんなの必要ないんだもん。相手も自分も考えていることは大体同じなんだから、何も声を大にして論じあう必要など無いのだ。
うん、いい国に生まれた。

はい、ここまでが前提。
本題に入ろう。

日本はもはやこのような幸せな時代ではない。

黙っていても、こちらの考えが相手に伝わるような環境ではなくなってきた。

冒頭にも書いたように、「コミュニケーション技術」を磨く必要性がより一層出てきたのではないか思う。

昔の日本の子供は、ガキ大将、近所のカミナリオヤジ、駄菓子屋の婆ちゃん、自宅に帰れば爺ちゃん、婆ちゃん、と違う世代との交流が当たり前だった。彼らと接することによってコミュニケーションの技術とまでは行かなくとも、社会性、簡単に言えば「礼節」のようなものが自然と身についた。

また、年上の世代から「知識」ではなく「知恵」を学んだ。

どの子供もこのような体験を共有していたからこそ、何も語らなくても通じる素地があったのだ。

ところが、今の子供はどうだろう。

核家族化が進み、爺ちゃん、婆ちゃんが家にいない家庭が多くなった。また、交流の範囲も狭まり、遊び相手は同世代のクラスメート、塾に行っても同じ学年の生徒たち。

自分より年上の世代との交流は先生と親くらいなもの。ガキ大将もカミナリオヤジ的存在もいなくなったので上の世代との交流もなくなった(あ、でも部活があるか)。

共働き夫婦の家庭も増えたから、レンジでチンの鍵っ子は親との対話無しにひとりで夕飯を食べることになる。

様々な世代との接触、交流も減る。テレビ、マンガ、ゲームのような娯楽は、基本的に一人で楽しむもので、相手は人ではない。モノだ。

当然コミュニケーション能力は磨かれない。

加えて、学校では欧米のようなディスカッションもカリキュラムには設けていないので、訓練をされないまま大人になってしまう。

かくして、挨拶が出来ない、自分の考えをうまく相手に伝えられない、対話というプロセスを無視して性急な結論を求める、相手の話を聞かない、という「子供大人」が誕生する。

このような大人が増えると困ってしまう。

困ってしまう、なんて他人事のように書いてしまったが、かくいう私自身も実はかなり危ない。常日頃、自分のコミュニケーション能力の無さに唖然としているくらいなのだ。

スキルを磨きたい、もっと上手に人とコミュニケーションを取れるようになりたい、と常日頃思っている私であった。

記:1999/05/21
 

追記

私の親父は、公演の依頼が多かったり、大学の客員教授をやっていたりしていた時期があったので、よく家で原稿を書いて、何度も声を出して読み、お袋がそれを聞きながら「ここの部分が分かりにくい」などとアドバイスをし、さらに推敲してソラで話せるまで練習をしていた。

私はこの光景を見て、「随分神経質だなぁ、ジャズにはアドリブが大事なんだよ、アドリブが、その場でぱっぱか言葉が出るぐらいじゃないとダメなんだよなー」、などと思っていた。

ところが、後で知ったことだが、欧米の大会社の社長や会長は、スピーチの前に、何度も何度もスピーチの練習をするという。それも自分の会社の社員相手に話をする時でさえもだ。

さらに、スピーチの効果を高めるために「ささやき」の訓練までもするそうだ。

大事なことを効果的に伝えるための「よく聞こえるささやき」。

急にささやけ、と言われても、人間なかなかうまく出来ないもの。だから練習する。この話し方で分かってもらえるだろうか、聴衆に伝わるだろうか、と練習をする。

コミュニケーションを取るために、そして、自分の考えを相手に伝えるために、彼らは相当神経を使っているのだなと思った。

お互い「分かりあっていない」ことを前提に、スキルを磨き、訓練を重ねるとはまさにこのことなのだと思う。 あながち親父がやっていた練習も馬鹿に出来ないと思った。というか本当に自分の意見や考えを相手に伝え納得させるためには、それぐらいの心構えは必要なのだなと痛感した次第。

かたや、日本のオジサン上司はどうだろう。

「当然分かっている・分かってなきゃいかん」ということを前提に話すから、「例のやつ」「あれはどうした、あれは?」となってしまう。

「あれ」って何だ? 具体的に言葉で言えよ。

なんか、こういうのって非常にダサイ。

こんなダサイおっさんになりたければ、コミュニケーションの大切さ、相手にものごと一つを伝えるのも実は大変に難しくて神経を使うものなのだ、という認識をもたずに、ノンベンダラリと生きるというのも一つの手だろう。

記:2000/11/21
 

追記2

作家の村上龍が、最近『eメールの達人になる』(集英社新書)という本を出した。

え?なぜ村上龍が?

ひと頃はSMやキューバに熱中していた龍ちゃん、最近は経済関係のメルマガや雑誌を精力的に発行したり、経済に関する絵本を出してみたりだけど、今度は「“お手紙の書き方”ですか?」と首を傾げた人もいたが、それは違う。

彼の作品を丹念に追いかけていると分かるが、村上龍はかなり以前から、コミュニケーションの問題に常に悩み、常に考え、試行錯誤を繰り返してきた作家なのだ。

私の場合は、『5分後の世界』が出た時に、会話の中のいくつかに、「お!?」と思われる箇所があったことを記憶しているが、もしかしたら、それ以前から、折りに触れて作品の中で触れられているのかもしれない。

だから、ある意味、この「eメール」の書き方が出るのは必然的な流れだったのではないかと私は思うし、実際読んでみて、なるほど、と思ったものだ。

あとがきに「メールの達人になるためには、コミュニケーションは本質的に非常に困難なものだという自覚がまず必要ではないかと思う」という一文がある。

メールに限らず、と私は思うが(顔、声のないメール“だからこそ”ということもあるが)、過去のこの稿に書いた通り「相手が分かっていないこと」がコミュニケーションの前提に置くことが、やはり丁度良いのだと思う。

そして、「伝わらなければ意味がない」。

この思いは、日に日に強くなってきている。

記:2001/12/22

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