「生い立ち」といふこと

      2016/01/12

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自分の生い立ちや家庭環境はあーだったから、こー育って、こーいう性格になったのだ、といったことを延々と話す人がいるが、こういう人を相手にした時の酒や料理は本当に不味い。

だって私が相手にしているのは、「現在のアナタ」なワケなのだから。

よっぽどその「人物」に関心を持たない限りは、相手の過去や境遇などは別段どうだっていいことなのだから。

確かに、幼少時の環境や親のシツケが将来の性格をも左右するほどの影響力を及ぼしたり、ヒドイ場合はトラウマになってしまうケースを認めることに吝かではないが、親や教師などによる束縛の重力圏から逃れ、親に育てられた期間よりも遥かに長い人生を歩もうとしている、言ってみれば檻の中から解放された自由な状態として、これから自分自身を創造し、カスタマイズしていける時期なはずなのに、人生の何分の一にも満たない期間の呪縛から脱しきれない、いや、脱しようともしない半ば諦観をも滲ませながら、このような会話をするというその心は、成長放棄の言い訳と、自己弁護なのだと解釈してもいいのですかね?

記:2000/08/29

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