カフェモンマルトル

text:高野雲

「糺される」機会を逸したままオトナになるコドモ

      2015/05/23

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mongoose

奄美大島では、ハブを駆逐するため、野山にマングースが放たれましたが、息子の学校では、暴れん坊の生徒の抑止力として、息子が、暴れん坊のババルウ君(仮名)の席の隣に席替えされました。

通常、小学校の机は男の子の隣は女の子です。

ですから、1学期、2学期ともに、ババルウ君の隣の席は女の子でした。

しかし、ババルウ君の席の隣になった女の子3名とも、

「もう学校行きたくない」

「学校やめる」

と泣きながら親に訴えるまでの事態に発展し、保護者の間では、ババルウ君のイジメは問題になっていたようです。

そこで、今回の席替えで、ババルウ君の隣が、息子になったようです。

ババルウ君はかなりの暴れん坊らしいですが、息子のほうが身体は大きいです。

ライオンはゾウを襲わないし、サメも自分より大きな魚を襲わない。

学校側は、このような効果を狙ったのかもしれません(笑)。

おまけに、ヒーロー番組をたくさん観ている息子は、妙に正義感が強く、ババルウ君が悪さをしたら、注意をする効果も期待されていたのかもしれません。

とにもかくにも、ババルウ君の隣には息子がやってきました。

そしたら、目に見えてババルウ君の横暴がおさまったようです(少なくとも、担任の目からみた範囲では)。

というような話しを先日保護者会に参加してきた女房から聞きました。

先生は、ずいぶんババルウ君の横暴に手を焼いていたうえに、保護者からのクレームもたくさん受けていたようなので、息子が隣に座った効果をとても喜んでいたようです。

保護者からも「空君のお陰で、うちの子から“学校行きたくない”がなくなって感謝してます」みたいな声が寄せられているようで、女房が家に帰って息子に「えらいじゃん」って言ったら、

「なんだよ、先生、余計なこと言ってよー」

と、ちょっと悪ぶりながら、照れていたそうです。

息子、ほんと、こういう話は家でしないからなぁ。

息子に、「ババルウ君って、そんなにキカン坊なのか?」

と聞くと、

「うん、すごい暴れる。」

のだそうです。

「強いのか?」

「うーん、けっこう強い。でもオレのほうが100万倍強いから大丈夫」

だそうです(笑)。

ババルウ君の悪さの話しを聞く範囲から判断すると、どうも、あまり善悪の区別がついていないような気がします。

やっていいこと、悪いことに関して親に叱られたりしたことが無いのかもしれません。

聞くところによると、お爺ちゃん子なのだとか。

両親は、二人とも仕事に忙しく、日中、ババルウ君の面倒をみるのは、さらに学校にまで迎えにくるのは、お爺ちゃんだそうで。

べつにお爺ちゃん子だと悪くなるというわけではありませんが、お爺ちゃんは孫に優しい家庭が多いから、もしかしたら、あまり叱られないまま大きくなっちゃったのかもしれませんね。

糺(ただ)す人。

この役割を担う人は必要です。

普通は親なんだけどね。

昔は近所のカミナリオヤジや、ガミガミうるさいタバコ屋のバーさんなんかも、その役割を担っていたのでしょう。

しかし、ババルウ君のお爺ちゃんは、きっと「糺す」という役割を負っていないのでしょう。

だから、ワガママや感情の爆発が学校で起きちゃうのかもしれません。

学校での「糺す」役割はもちろん、先生ですが、40人近くの児童を相手にするので、やっぱり限度というものがあります。

過度な期待は禁物です。

やっぱり、こういうことは家庭の役割だと思います。

この役割を放棄すると、きっとババルウ君のような子供になっちゃうのかもしれません。

もっとも、ババルウ君のケースは、まだ分かりやすいし、カワイイもんじゃありませんか。

小学校低学年で、分かりやすい形で、「糺し」のなさが発露している。

しかし、家庭によっては、中学生になってから、高校生になってから、あるいは社会人になってから爆弾が爆発するかもしれません。

そうすると、手に負えなくなる可能性大。

そう、「糺さない」ということは、子供と親自身に、自ら時限爆弾を仕掛けるようなものなのです。

適切なタイミングで、適切な対処。

これはシゴトも、子育ても同じだと思います。

適切なときに、適切なことを怠ったツケって、後になればなるほど取り返しがつかなくなりますからね。

嫌われることを怖れては、親やってられません。

それに、子供から信頼されていれば、叱っても嫌われることは絶対にありません。

もうちょっと書いてみます。

結論から言ってしまえば、「糺す」機能の減少が、ニートや、キレる若者、礼儀をわきまえない若い社員や、クリエイター&アーティストかぶれの増加を招いているような気がしてなりません。

要は、「甘え」たままの子供が、そのまま大人になってしまっているケースが多いんじゃないか? ってことですね。

もっとも「甘え」そのものは、私は悪いことだとは思ってはいません。

家族、恋人、奥さん、旦那、気心知れた友人には、甘えてもいいんじゃないかと思います。相手が自分に甘えてきたときも受け入れられるんであれば、ね。

でも、誰に対しても「甘え」てもイイとは思いません。

電車の隣に座った人、改札口付近でぶつかりそうになった人、コンビニのレジの人、駅付近の駐輪場を管理しているお爺さん、2分前に名刺交換したばかりの人、初仕事のクライアント……。

こういう人相手に、普通は甘えられますか?

普通の神経じゃ甘えられないよね?

でも、なれなれしい口をきいたり、お前何様?な態度や要求をしたり、ときにはキレたり、これって全部甘えです。わがままです。

こういう、誰にでも異を唱えたり、喧嘩腰でふっかける人は、結局、対人関係の中で揉まれないまま大きくなってしまった人に多いような気がします。

特に、今の30代よりも若い世代に顕著なような気が。

もちろん、我々30代、あるいは40代以降の世代にだって、どの世代にも「困ったちゃん」「カンチガイさん」は少数ながら存在します。

しかし、団塊ジュニアと言われている層よりも若い層にその傾向が顕著で、パーセンテージが高い気がします。

これは、あくまで私の私感で、統計をとったわけではないので、あなたの周りの人はそうじゃないかもしれません。

また、団塊ジュニアよりも若い世代の人でも、若社長や、シゴトをバリバリやっている人は、その限りではありません。むしろ、彼らの言動からは私も学ぶべき点が多いです。

それを踏まえた上で、それでも若い世代にその傾向が多いと私が感じるのは、親も先生も優しくなってきた時代に育ってきたからなんじゃないかと思います。

優しいというと語弊があるか。私だって優しいし(笑)。

優しいから、叱るのだ(笑)。

優しい、ではなく、あまり叱らない、叱り方の甘い親や先生のシツケの結果が、「甘ったれコドモ」を助長しているような気がします。

くわえて、核家族化も影響しているかも。

というのも、「糺(ただ)す」機会や人が少なければ少ないほど、人はワガママで甘えん坊になっていくもんだと私は思うからです。

仮に、親が甘くても、先生が「糺す」。

先生が甘くても、おじいちゃん、おばあちゃんが「糺す」。

あるいは、古き良き下町的な地域社会だったら、近所のオジさん、オバさんが「糺す」。

中学に入れば、部活があります。運動部に入れば、先輩・後輩という絶対的な上下関係が、「糺し」の機会になる可能性が大きいし、高校の部活も、もちろん同様です。

部活じゃなくても、塾や予備校にそのような先生と出会う可能性もあるかもしれませんが、まぁ、普通は、自分の日常生活への密接度の高さに比例して「糺す人」の影響と効果が高いと思います。

つまり、親、先生、先輩という順番ですね。

じゃあ、親が甘くて、じいちゃんばあちゃんがいなくて、近所付き合いもなく、先生も叱らないで、部活に入っていない子供はどうなる?

誰も「糺す」人がいないし、「糺される」機会もない。

その結果、どうなるかはご想像のとおり、昨今のワカモノ事情が結論です。

事件になるような、派手な行動を起こすアクティヴな子供はむしろ少数で、多くはネガティヴで大人しい子供のほうが多数派だと思います。

しかし、「糺される」機会を逸したおとなしい子供や大人には、「自己評価が過大」という共通した傾向があるように思います。

何もアクション起こさないのに、「今の自分はこんなもんじゃない」。

「本気になれば、俺はもっとやれる。やれないのはアイツのせいだ」。

仮に彼はギタリストだとしましょう。

バンド組めばいいのに、家でギターばかり弾いていて、バンドを作って、バンドという社会に身を置こうとしない。

仮にバンドを結成したとします。

バンドのメンバーが100パーセント、自分の好みと一致するわけがありません。

だから、大筋での傾向は一緒かもしれませんが、小さな好みの違いは絶対に出てきます。

こうした、ちょっとしたメンバーの好みの違いは、話し合いや譲歩、妥協、説得で擦り合わせていくのが常ですが、そういった努力もせずに「ヤツは俺のことをわかってない」「音楽性の違いで…」と、せっかく築き上げつつある関係をリセットしようとする。

100歩譲って、そのギター君、腕はかなりのものとしましょう。

しかし、自分の落ち度や、気づかなかった弱点を指摘されたり、誤りを糺す人に出会えないまま、大人になってしまったギター君は、腕だけじゃ、決して音楽では飯を食っていけないことでしょう。

いくらイイ商品でも、商品力だけでモノが売れることはマレなこと。

商品の“良さ”が認知され、広まり、店のいい場所に置かれるまでには、その商品の性能以外にも、多くの人の汗と努力が払われていることが多いのは言うまでもありません。

それと同様、いくらイイ腕を持っていても、音楽は人あっての表現です。世に流通するのも人あってのことです。

つまり、自分の音が、リスナーの耳に届くまでには、それこそ、何十人もの様々な分野の人に会い、コミュニケーションを取っていかなくてはならないのです。

よっぽどの天才ならともかく、最初からアーティスト気取りでは、つくはずの人も離れてゆきます。

ワガママが通用するのは、それこそ押しも押されぬ大御所になってからの話。

なーんて、話題を、以前、楽器屋のお兄さんと呑みながら話していましたが、楽器屋のおにーさんも、最近の高校生や大学生の傾向を嘆いていました。

楽器がうまい子は今でもいるし、むしろ昔の若者よりも巧いぐらい。

しかし、口のきき方がなってない、態度が悪い。

ネットで仕入れた“間違った知識”を一生懸命、店員に語るはいいけど、「キミ、楽器屋に何しにきたの?」状態。

その間違いを糺そうものなら、キレる。

それだけならまだイイが、加えて、店の楽器を断りなしに勝手に弾くは、試奏すればしたで、一言も声をかけずに、店員が目を話している隙に、何も言わずに帰る。

まったく、どーいうシツケ受けて育ってきたんでしょうねぇ?

と、楽器屋のおにーさんは嘆いていましたが、いや、そもそもシツケなんて受けてないから、あーなるんだよ(笑)。

日本も格差社会と言われるようになって久しいです。

金銭的格差、教育的格差など色々あります。

「糺される」機会の多い子供と、「糺されない」まま大きくなった子供。

これも、教育格差のカテゴリーにはいるのでしょうが、この差は、ますます大きくなって今後も広がってゆくんじゃないかと思います。

記:2007/01/25(from「趣味?ジャズと子育てです」)

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