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ジャズと映画とプラモの日々:高野雲

本当の「強さ」とは?

      2018/07/07

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「しっかりして」いなければ、生きていられない。

瞬発力や攻撃力に長けていることを「強さ」であると長らく私は思っていた。

だから、これらの「力」を自分の中に身に着けること、つまりワザや攻撃のバリエーションを増やすなど、とにかくプラス、プラスで自らのスペックをアップデートしていくことこそが「強さの追求」だと思い続けていたのが30代から40代前半までの尻が青かった頃の私。

まあ、ウルトラマンや仮面ライダーやブルースリーやロボットアニメが大好きだった私のことだから(今でも好きだけど)、どうしても「強さ=破壊力」みたいな短絡的な図式が頭の中に構築されてしまっていたのだろう。

もちろん格闘技のように、相手を「倒す」ことが前提の競技やスポーツの場合であれば、ワザや技量の追求は必須事項だ。

しかし、我々の多くは、べつに誰かを「倒す」ために生きているわけではない。

しかし、生きている以上、ある種の強さは必要だ。

レイモンド・チャンドラーの晩年の作品『プレイバック』中で、探偵フィリップ・マーロウが語る名セリフ、
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”
のように。

これ、角川映画の『野性の証明』のキャッチコピーの影響で、多くの人は、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」と理解しているかもしれないけれども、実際、原典に出てくる「hard」とは、おそらく「しっかりした」強さのことなんじゃないかと思う。

つまり、格闘家でも兵士でもない私たちにとって必要な「強さ」とは、肉体的な強さというよりは、メンタル面においての「しっかりとした強さ」なのだろう。

不測の事態のときに問われる「強さ」

ここ数年の私の心境を語ると、攻撃力のような相手を倒すための「強さ」、あるいは相手から攻撃されないための「見せかけの強さ」を求めること自体、弱さのあらわれだと思うようになったし、そもそも「強い」とか「弱い」とかには、それほど拘泥しなくなってきた。

もっとも、だからといって私が強くなったからそう考えるようになったというわけでもないのだが……。

最近思うに、本当の強さは「持久力」だったり、窮地や修羅場に陥ったときにも平常心を保てる心の強さだと考えるようになってきている。

人は誰しも、生きていれば多かれ少なかれ必ずトラブルに遭遇する。

それは、どんなに注意を払って慎重に生きていてもだ。

どんなにこちらが気をつけていても、あらぬ方向から発生するトラブルもある。

もちろん、このようなトラブルを未然に防ぐための努力は必要といえば必要なのだろうが、それでも予期せぬタイミングで不意打ちのように災厄が降りかかってくることだって無いとはいいきれない。

その時に、どう振舞うか。
慌てるか、泣きじゃくるのか、フリーズしてしまうのか、さらに弱者を攻撃のターゲットにし憂さ晴らしをするのか、腐って不貞寝するか、それとも落ち着いて毅然と対処するか。

このトラブルがふりかかった際に問われるのが人の「強さ」だと思う。

それは、必ずしも攻撃力ではない。
どちらかというと、守りの力、そして粘り腰。

不測の事態に臨むその人の「姿勢」に、その人の「強さ」があらわれる。

トラブルをこうむることはマイナスではあるけれども、本来100のダメージを受けるところを、マイナス10程度に、つまり最小限の肉体的、精神的、あるいは社会的、金銭的ダメージに抑えることが出来る対処能力こそが、現代社会(少なくとも日本の社会)を生きていく上での「強さ」のひとつなのではないかと考えている今日この頃。

体力的には若者には劣るものの、やはり年季を積んだオジさんのほうが「強い」ことが多いのは、それだけくぐり抜けた修羅場の数の違いなのだろう。

だから、受けるダメージが少なく、回復力もある若い頃に、できるだけ多くの経験値を積んでおいたほうが良いに越したことはない。

「苦労は買ってでもしろ」
「可愛い子には旅をさせよ」

先人が短い言葉の中に凝縮した想いが、少しずつ分かりはじめている今日この頃なのだ。

記:2018/02/16

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