みなさん、本当に疲れているの?

   

tsukare

広告は時代を映し出す鏡であると同時に、時代の雰囲気を取りこみつつも、制作者の意図をそれと気付かせずにさり気なく注入しメッセージを送る器だ。

例えばいささか古い例だが、アメリカにおけるコークのCMの常套パターンを紹介しよう。

ハイスクールに可愛い娘がいて、仲良くなる。

周囲の軽い嫉妬を優越感とともに味わう。

そしてコークをスカッと飲む。

一見手に届きそうな理想だが、実際にはそうもいかない現実の橋渡しをするのが、コークというわけだ。

理想とする女の子をゲットすることが出来ないにしても、コークをスカッと飲めば、その理想の一部だけは実現できる、と消費者に思わせる(勘違いさせる)。

欲望の喚起を設定し、商品を欲望の代償とする。古今東西のCMの常套手段ではある。

ついでに、もう一例。

CMではないが、サイモン&ガーファンクルの《明日に架ける橋》。

名曲だが、歌詞を見ると随分ヘンだ。

内容はだいたいこんな感じ。

君が落ち込んだり、気が滅入ってたりしても大丈夫さ!

明日に架ける橋のように、僕が君を慰めてやろう!

いささか強引な要約は勘弁のほどを。

この歌の特徴は、落ち込んでもいないリスナーを勝手に落ち込ませ、勝手に慰めるという手法だ。

で、クライマックスに登場する「Silver Girl」ってのは実は麻薬を注射する針のスラングで、癒しもエスカレートしてトリップの世界にまで… いや、これは本稿のテーマからは外れるので省略。とにかく、この構造に気がつかないリスナーは最後は救われた気持ちになるという寸法。

そりゃそうだよね、最初は滅茶苦茶な状態に突き落とされるんだから。

これは自己啓発セミナーや宗教や諜報機関での洗脳の手法と基本的には変わりがない。

何も《明日に架ける橋》だけではない。ビートルズをはじめとした当時のラブソングは大体こんな感じだったのだ。(今でもそうなのか?)

リスナーは何の疑いも無く、彼らの甘い囁きに酔い、いつの間にか歌の中の人物と自己を同化させる。繰り返すようだが、このようなパターンは古くからの手法で新しくもなんともない……。

さて、本題に入ろう。

最近の缶コーヒーは「ほっと一息」の代替商品となってしまった感がある。

缶コーヒーのヘビーユーザーはトラックやタクシーの運転手、外回りの営業マンだが、彼らにとっての缶コーヒーは昔から「ほっと一息」入れる時に飲む商品ではあった。

ところが、恐らく自覚的、意図的に、あたり前の「ほっと一息」を全面に押し出したCMがメディアを席巻しはじめた。

安田成美の「一息しましょ」を皮切りに、 公園のベンチでとんねるず 扮するちょっと疲れたサラリーマン、矢沢永吉の「まいったなぁ」、クリントンに「テルミーガツン!!」と言われる中間管理職のおっさん。

松田優作の「Jack」は例外としても、ほとんどの缶コーヒーCMのシチュエーションは、ある種「ほっとするための精神安定剤」的な位置付けを確立してしまった感がある。

極め付けは、飯島直子のジョージア。

「たまんねぇよなあ。早くおわんねえかなあ。てなことかな」(長い会議で疲れた男たちに)

「アッチィよねぇ。そんなに熱くなっちゃって!このぉ!」(汗だくで公衆電話をかける男に)

「言っちゃえよ。ガツンと言っちゃえよ。ガッツーン!とは言えないかあ。」(上司に叱られている男に)

ちょっと乱暴で揶揄するような口調だが、叱られたり、たしなめられたりすることが、むしろうれしいマザコン世代の男にはたまらないセリフだ。

缶コーヒー、イコール「癒し商品」「ほっと一息する商品」 というイメージは、「疲れている男たち」と「疲れを癒す女」という幻想が一人歩きした飯島直子出演の「ジョージア」で決定づけられたと言ってよい。

誰かに言って欲しい一言を飯島直子が代弁してくれた。

だから、「本当は疲れていない男たち」も「何となく疲れた気分」になって癒された気分になった。先述した「自己同一化」だ。

彼女が呼びかけた「やすらぎパーカープレゼント」は4435万152通の応募、第二段の「がんばってコート」は4403万5861通の応募があったそうな。

のべ人数で換算すると日本国民の3分の2が応募をしたことになる。

恐らく1人で何通も応募をした人間が何千人もいることは想像に難く無いが、ともにプレミアム史上の記録を塗り替えた応募数だそうで、それだけ圧倒的な支持を受けたということは確かだ。

それほどまでに時代は「やすらぎ」と「がんばって」の慰めを求めているのだろうか。

違うと思う。

もちろん、こんな御時世だから「不景気」と「疲れ」を関連づけて語ることは簡単だ。

だが、本当にそうだろうか。

「不景気」の煽りでリストラや解雇された人間は、仕事が無いんだから疲れようが無いではないか(もちろん精神的な疲れはあるかもしれないが)。

缶コーヒーCMも、コークのCMや「明日に架ける橋」の手法と同様、欲望の喚起を設定し、商品を欲望の代償とする手法と何ら変わりがないような気がする。

送り手の勝手な「精神的つき落とし」を喰らわされた人間が、勝手に「自己同化作用」をおこして「疲れた気分」になっているだけなのではないだろうか。

本当に「疲れている人」は缶コーヒー程度では癒されないよ。缶コーヒー程度で癒される疲れは、当然疲れの部類には入らないし、視聴者も馬鹿じゃないから、それぐらいは気がついているはずだ。

では、「癒しCM」がなぜあれほどの支持を受けているのか。

「疲れた自分が癒される」というストーリーが欲しいということに他ならない。そのためには、疲れていない人も一旦疲れてみる必要がある。

そうしないと「がんばって」と応援してもらえないからだ。

と、ここまで書いてきたところで、俺は一体何を言いたいのかというと、たった一言だけだ。

疲れてない奴まで疲れた気分になるな!働け!!

以上だ。

記:1999/05/04


※参考文献
『よいこの広告』(宝島社)
『広告のヒロインたち』(岩波新書)
『広告頭脳』(河出書房新社)

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