歴史小説の楽しみは、ジャズの楽しみに似ている。

   

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歴史を「学ぶ」と「楽しむ」は似ているようで、別な話だと思います。

たとえば、時代小説を読んで、「歴史をマナンデいる」という自己満足に陥るのは大いなる錯誤。

作者が投影&設定した歴史上の人物像に楽しみ遊ぶのは私も好きですが、それが“ホント”だと思い込んでしまう危険性がある。

ホントかもしれないけれども、ホントじゃない可能性だってある。

言うまでもなく、

学ぶ=学問をする

ということは、真実を知ること。

あるいは、真実を探求(究明)すること。

実在した歴史上の人物のキャラクターのセリフ、日常的な行動は、真実とか真実じゃないこととは別な地点で楽しむべきエンターテインメントなのです。

1つの作品を執筆するために、トラック1台分の膨大な資料を取り寄せた司馬遼太郎の作品であれ、基本的に歴史小説はエンターテインメントだということを忘れてはいけないし、それを前提に楽しむべきです。

もちろん「竜馬」や「秋山兄弟」のように感化された人物の生き様を読み、自身を奮い立たせることはイイことです。

さらに、そこから興味が派生して、より深く小説の舞台となった歴史を調べ、自分なりの歴史観を持つことも良いことです。

しかし、昔の人物の業績は史料・文献で知ることは出来ますが、その人物には誰も会ったことがない。

だから、その人の実績・業績や、交流のあった人物の日記などから対象となる人物の性格、性癖、人物像は、書き手が想像をめぐらせるしかない。

だからこそ、この想像めぐらせ作業が面白いわけで、そこにこそ、エンターテインメントとしての歴史作家の筆のふるいどころがあるわけです。

極論すれば、時代(歴史)小説を味わう醍醐味は、ジャズのスタンダードを味わう楽しみに似ている。

つまり、既存の素材をどう解釈&料理するかというところが、表現者の力量の見せ所!というところがね。

たとえば、多くの人が思い描いた織田信長の人物像は、マッチョ、ヤクザの若親分、頭いいけどスゴみがある、といったイメージだと思います。

おそらく元服前の吉法師時代のイメージがそのまま大人になっちゃっているのでしょう。

乳母の乳首を噛み切ったとか、派手な格好で領内をうろつくガキ大将だったというエピソードが残ってますからね。

しかし、私が描く信長のイメージは、これとは逆です。

私の場合は、どちらかというと、佐野史郎やビル・ゲイツを連想してしまう。

それは、ルイス・フロイスの記録や、彼が行った政策、戦術が、他のマッチョ的戦国大名のものとは一線を画するからです。

弱いものゆえの強さのようなものを感じる。

現代社会で言えば、腕力では弱いけど、法律を武器にしたほうが、実社会ではもっともっと強いんだぜ、みたいな。

大河ドラマなどでは、イクサに強いヒトと描かれがちな信長。

実際、NHK大河ドラマ『功名が辻』の主人公・山内一豊は、桶狭間での彼の鬼神のごとく戦う姿を目の当たりにして、彼に惚れることになっていますよね。

しかし、単純に強いだけの人かというと、それは微妙です。

彼の生涯のイクサの勝ち負けを判定すると、意外と、負けや引き分けが多いことに気が付きます。

決して、斬った・射ったの戦闘で強かったわけではないのですね。

兵、1人1人の戦闘力や強さは、尾張の隣の「三河武士」のほうが全然強かったみたいです。

だからこそ、美濃の攻略に10年もかかったし、弱い兵での正攻法がダメだったからこそ、彼は色々と考えたんでしょうね。

つまり、美濃を弱体化させるのに、ゲリラ戦を多用した。

一回、二回の戦闘での大勝ちは無理だと悟ったのか、何度も何度もしつこく攻めて、負けそうになったら、とっとと引き上げる。

収穫時期の秋にもこれを繰り返す。

そのためには、傭兵を雇う。

次第に兵農分離が進む。

兵農分離が進めば、夏だろうが秋だろうが、かまわずイクサが出来る。

何度かにわたって行われた信玄vs謙信の川中島の戦いのタイミングは、収穫の秋の前に行われていたことに比べると格段の違いですね。

だから、傭兵を使って秋にも攻め込める傭兵を雇うメリットは大きいわけです。

負けそうになったらとっとと撤退すればいい。

傭兵だから、逃げ帰ってきても、地元では「ご近所さんに顔向けできない」なんてことはない。

これを何度も繰り返せば、だんだん豊穣かつ頑強な美濃の国も疲弊してくる。

(木下藤吉郎の登場と台頭は、ちょうどこのタイミングですね。彼は運とタイミングに恵まれています。いよいよトドメを指す段階に登場して功名をあげたわけですから)。

と、話が長くなってしまいましたが、ようは、正々堂々と名乗りをあげて真正面から向かい合って戦うイクサの価値観が、崩れたのは、明らかに信長の用兵の革命によるものです。

こんなことを考えるのは、マッチョ志向かつ思考の武将にはなかなか難しいことです。

だって、強いヒトは、自分の強さを前提でモノを考えちゃうから、このような新しい用兵方法ってなかなか考えつかないんだと思う。

きっと、陰険、というといきすぎかもしれないけれども、自分の弱さをまずは自覚した上で、よく考えるタイプのヒトだったのでしょう、信長は。

それにあわせて、歴史の教科書にものっかっているような肖像画、それにくわえて、ルイス・フロイスの甲高い声で話し、カンシャク持ちだという記述を読むと、やっぱり、どう考えても、反町や舘ひろしや渡哲也は思い浮かびませんね、私の場合。

しかし、私が思い描くこのような信長像も、私が勝手にイメージしたものだから、それが正しいというわけでもない。

歴史の人物に勝手に思いを巡らせ、想像の中に遊んでいるだけなのです。

歴史小説を読む楽しみは、そこのところにあるんだと思います。

作者の筆いかんで、歴史上の人物は、魅力的もなるし、すっげぇ悪い奴にもなる。

たとえば、私が好きな小説に隆慶一郎の『一夢庵風流記』がありますが、よくもまぁ、史料の少なく謎の多い前田慶次という人物をここまで拡大飛躍させ、スケールのデカい物語にしたてあげたなぁと感嘆することしきりです。

一夢庵風流記 (新潮文庫)一夢庵風流記

朝鮮にまで渡って大活躍する、一代冒険大活劇ですからね。

これぞ、歴史小説の面白さのひとつですね。

つまり、基本的な史実さえ押さえれば、大ボラ、大フェイクも許されるということ。

北方謙三の『三国志』もまさにそう。

これって、北方流ハードボイルドの舞台が、そのまま三国時代になっただけ(笑)。

三国志の物語というフォーマットに、北方流「男の生き様学」が投影されているので、三国志としても読めるし、北方ハードボイルドとしても読める。

そして、単純に面白い。

まずは、これが基本でしょう。

そういうわけで、すでに存在した歴史上の登場人物という素材に作者の自分流の人間観を投影させ、生命を吹き込む楽しみ、そして、読者にとってはそれを味わう楽しみ。

エンターテインメント作家、という自覚を強く持った彼だからこそ、見事な筆致で描いたのが、北方流三国志なのです。

このように、歴史小説は「学会での研究発表」ではないのだから、思い切り作者が想像の翼をはばたかせ、かつエンターテインメントとして我々を楽しませてくれれば、それはそれでエエんじゃないかと思っております。

ジャズで言えば、歴史上の出来事や人物は、あくまで「テーマ」。

たとえばスタンダードと呼ばれるナンバーは、誰もが知る曲ですよね?

誰もが知っている内容をジャズマンがどう料理するのかが、ジャズを聴く楽しみのひとつなわけです。

それと同様、誰もが知っている史実を、作家がどう料理するのか、それを味わうことこそが、歴史小説を読む楽しみだと思うわけです。

記:2006/01/18

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