受験必要論/林修

      2019/08/24

昨今の大学「推薦」入試事情

もし自分が高校教師で、自分が担任しているクラスの中で指定校推薦の生徒が多ければ、「書くの面倒くせー!」というわけではなくても、恥ずかしくない内容を無難かつ短時間で書くためには、こういうソフトに頼ってしまうかもしれないなぁ。

いや、もう既に多くの高校に常備されていたりして。

となると、毎年、似たり寄ったりの書類が大学に届けられてるってことなのかな?

だとすると、固有名詞違いのテンプレ書類の山を審査しなければいけない大学の入試管理局の担当の方々も大変ですなぁ。

最近は公募制推薦、AO入試、指定校推薦で大学に入学する生徒の数のほうが、一般受験(いわゆる普通の入試ね)で入る生徒よりも人数が多いのだそうです。

もう、この時期、早いところだと、神奈川大学や東海大学や日本大学や神奈川工科大学などといったいわゆる中堅、あるいは中堅より下のクラスの大学は、早めに学生確保ということで、多数の生徒を推薦入試で合格させちゃうんですよね。

併願可能なところもあるけれど、多くの大学は「専願」。
つまり、合格してしまったら辞退できないんです。

で、このような公募制推薦でこの時期に大学が決まっちゃえば、高校3年生も安心してクリスマスやお正月を迎えられるし、バイトもできるし、車の免許を取るために教習所にもいける。

2月の大学受験に向けて必死に受験勉強している受験生を尻目に、一足はやく「合格」した生徒は、一足はやく「春」を謳歌できるわけです。

もっとも、最高学府である東大には推薦入試はないので、一般受験という「正攻法」で正面突破するしかないわけだけど……。

でも、東大以外の国立大学の多くは、公募制推薦があるんですね。

あ、国公立か。
横浜市立大学や首都大学東京にも推薦入試、ありますからね。

枠は狭いけど……。

中には「面接+小論+センター試験」という、面倒くさい組み合わせの大学や学部もあったりするけど、センター2次対策や、難関私大対策的な勉強はしないでOKなので、勉強面における負担は軽いと思います。

受験生の気持ちになってみれば、大学は早めに決まってしまったほうが精神的にもラクだし、浮いた時間は遊びやバイトや恋愛や大学入学後に備えた勉強などなど、時間を有意義に使えるというメリットもあるでしょう。

しかし、個人的には、1月、2月という寒い時期に、不安と精神的プレッシャーを抱えながら、努力に努力を重ねて「合格」を勝ち獲ったほうが、喜びは何倍も大きいと思うんですよね。

ラクして入ると、すぐやめる

長い人生、やりたいこと、遊びたいことを我慢して、たった一つの欲しいもの(ここでは「大学合格」)に向けて意識を集中し、努力を重ねる時期があってもイイんじゃないかと。

スポーツ選手や芸能人以外の一般人にとって、そういう「試練」や「ひとつのことに狂ったように集中する時期」っていうのって、人生の中、そうそう無いと思うんです。

私の場合はジャズだったりベースだったりでしたけど、1年や2年ぐらいは、ひとつのことに「バカ」になる時期ってないよりは、あったほうが、イイんじゃないかと思う。

それがたぶん、その人間の中に大きな根っこを張る時期だと思うんですよね。
桜の花じゃないけど、冬にじっと耐えたからこそ、美しい花が咲くよ、みたいな。

東進予備校のカリスマ講師・林修氏(著)の『受験必要論』という本は、きっと、私と同じような考えがベースになっているんじゃないかと思うんですね。

違ってたり、もっと深い考えだったらゴメン。

なんで私が、そんなこと考えているかというと、公募推薦やAOなどで大学はいった学生の中で、大学辞めたり休学している人を何人も知っているから。

もちろん彼ら、彼女らの場合はレアケースなのかもしれません。

彼ら、彼女らの言い分はこうです。

薬学部や医学部(推薦ではいれるところもありますからね)に入学して、半年か1年後。

「やっぱり、自分、勉強向いてないと思うんスよね」
⇒勉強ツライだけだろ?

「自分、やっぱ“お笑い”に目覚めたんで、お笑いの世界が向いてると思うんスよ」
⇒自らの読書経験が皆無なのに? お笑い芸人の方々に失礼なような気がしないでもない)

「本当に今の自分が本当の自分なのかな?って思うんスよ」
右だったら、自分探ししにイスラム過激派の多い地域にでも行って、生と死の狭間で“本当の自分”とやらを発見してこい!

こういうことを言って、大学をあっさりやめて、「とりあえず」コンビニや居酒屋や引っ越し屋でバイトしたりしているんですよね。

そう考えてしまう原因は、
たぶんですが、、、
欲しいもの(=大学合格)がカンタンに手にはいっちゃったから。

苦労しないで、ラクして大学にはいちゃったから。

……だと思うんですよね。

苦労して手に入れたものは大切にするものだけど、ラクして手に入れたものは、簡単に手放せるのかもしれない。

だから、今の目の前の現実(理系の学部に進学すると高校時代よりたくさん勉強をしなきゃいけないという現実)から逃げ出そうと、あれこれ御託を並べたり、あるいは本当に大学を辞めてしまう。

それに比べて、「絶対にあの大学に受かりたい!」と、自分がオープンキャンパスを訪れたときに大学の門の前で撮影した写真を、携帯やスマホの待ち受け画面にして、辛いときにはその画面を見ながら、必死に勉強して、ようやく合格した生徒は、大学辞めないですね。

そして大学生活を謳歌している学生が多い。

だって、やっとの思いで手に入れたものだから、大事にするでしょうし、それに自分の大学に誇りを持つことができる。

「どーせ、推薦ではいったし」
「どーせ、滑り止めだし」

そーゆーことを漏らす学生よりは、好感が持てますよね。

学力無いまま、自分のレベル以上の大学にラクして入ると?

公募制推薦だと、たとえば学校の評定平均が高いと、どんな高校でも一応は応募できるんですね。

そうすると?

開成や灘のように偏差値高い進学校で評定平均が3.5の生徒と、地方の工業高校で評定平均が4.5の生徒とでは、どちらが学力ありますか?

となると、当然、進学校で評定低い生徒のほうが、学力高い可能性は高いですよね?

でも、

評定3.5は「B評定」扱い。
評定4.5は「A評定」扱い。

評定がAとBとでは、推薦入学できる大学の選択肢の幅が違ってくるんです。

B評定だと受験できない大学も多くなってくるわけです。

だから、どんなに学力があっても、学力のある生徒が集まる偏差値高い進学校に通う生徒は、“その学校内”で順位が低いと、推薦入学の権利がない場合もある。

言い方悪いけど、「バカ学校」で評定が高い生徒のほうが、公募制推薦においては有利なんですよね。

しかも、偏差値低い高校は勉強しない生徒が多いし、授業で教えるレベルも低いから、ちょっと勉強すれば、5段階評価で「5」を取りやすい。

だから、このカラクリを知っている親や生徒は、高校受験は、無理して高めの高校に入学しない(させない)。

入学後はヒーヒーいいながら周囲の学力のレベルに合わそうと努力するよりも、自分の実力よりも少し低めのところに行き、そのかわり、高校生活は「安きに流れる」ことなく、周囲に同調せずにできるだけ高い成績を維持し、A評定を取って、高めの大学に推薦で入る(=受験勉強する必要なし・早めに合格が決まる)という作戦をとる人も少数ながらいるようですね。

もちろん環境は大事なので、高めの高校にいき、自分より勉強ができる生徒たちに刺激を受けて、個人の能力を伸ばすことのほうが大切だとは思うんですが、大学入学を視野にいれて、高校受験の段階から、そのような戦略をとる家庭(生徒)もいるということです。

ま、作戦勝ちというところでしょうが、でも、アホが実力以上の大学に入学できて、卒業したとしても、今度は社会で使い物にならない人間になる可能性もあるわけで。

たとえば、GMARCH(学習院、明治、青山、立教、中央、法政)レベルの大学、いわば東京の私大の「中の上」レベルの大学出身の社会人。

それも「推薦入学」で入学し、卒業した人の中には、偏差値40代レベルの高校から推薦で入学した人も中にはいるわけです。

単に「その高校」の中では成績優秀だということで、上記大学に入学できた生徒もいるわけです。

現在、日本には5000以上の高校があるそうですが、極端な話、5000番目のランクの高校でも、「その高校」内で成績優秀であれば、公募制推薦を利用すれば合格する可能性もあるわけです。
面接や小論の対策は必要かもしれないけど。

これら大学を卒業すれば、履歴書に書く肩書きは「そこそこ立派」に見えるかもしれませんが、なにぶん、中学、高校時代にあまり勉強していなかったものだから、基礎学力が欠落している人も中にはいるようです。

もちろん、数学や化学の学力は必要ないんですが、国語の基礎学力が欠けてると、問題やトラブルになることがあります。
あと、取引先の接待の時など、酒の話で出る話題、文学や歴史などの一般常識レベルの知識を知らないため、会話が出来なかったとか。

ある人から聞いた本当の話だけど、明治(か法政か立教か青山)出身の新入社員の言語能力がヘン過ぎて、怖くて取引先に電話をさせられないというんですね。

「私ですか? ハイ、私はその日は公休をもらってるので、会社にはおられませんです」

とか、

「部長、今、なんと申されました? 私が仰ったことを伺わられましたか?」

「先週課長に提出しておいた稟議書は、いただかれましたか?」

平気な顔して、そのような尊敬、謙譲、丁寧語がオカシな社員が本当にいるそうです。(実話)

採用の段階で、面接で見抜けなかったのかよ?と思ったんですけど、どういうわけか、スルーしちゃう人が何人かは毎年いるらしい。

で、その社員と打ち解けて大学入学に関してさりげなく聞いてみると、「あ、自分は、推薦で大学はいってますから、受験勉強してないです」と、受験勉強なしで大学にはいった学生であるケースが多いのだそうです。

勉強できなくてもいいけど、ましてや高学歴を求めるわけではないが、話し方がヘンだと戦力にはならんと、その部長さんはため息ついてました。

先述したとおり、大学合格という目標のために、一年の中で一番寒い時期に苦労したほうがイイと私が考える理由はそのへんにもあります。

ツラくて大変だけど、この時期に受験勉強というものを通して、吸収&学べることだってあるのだから。

単に暗記だけではなく、効率や生産性の追求や、生活面を見直し改善していく「自己マネジメント」の考えも養われるかもしれない。

というより、受験科目数の多い国立大学に合格するためには、意識的であれ無意識であれ、自分を律する心のほかに、効率よく科目と勉強時間を配分する「マネジメント」の意識は必要不可欠だと思います。

このように「受験勉強」という、多くの生徒にとっては「イヤなこと」に向き合い、工夫を重ねる受験期は、将来に備えて「生きる力を育む」時期になるのではないかと思います。

もちろん先に例に出した学生(社会人)たちはレアケースなのかもしれません。

推薦入試で自分のレベル以上の大学に合格し、セルフイメージがアップしてバリバリ頑張る学生のほうが多いのかもしれません。

しかし、今後、少子化がますます進むに比例して、大学のほうも、座席を埋めるために、推薦で確保する生徒の枠を増やしていくのでしょうが、やたらめったら増やすことは、その生徒(大学入学後は学生)の将来のことを考えると、良いことなのかどうかは、疑問ですね。

ま、私立の場合は学校運営(経営)の問題もあるのでしょうけど……。

でも、「テクニック」だけで、さほど苦労せずに自分の実力以上のレベルの大学にはいってしまった大学生は、高校時代にするべきだった苦労を、大学在学中や、卒業後社会人になってから、その「ツケ」を払うようなカタチになるんじゃないかと思います。

やっぱり得たものの「対価」って、前払いか後払いかの違いだけだから。

となると、これは私の考えだから異論がある方もたくさんいらっしゃるでしょうが、やはり大学受験の際、入学したい大学のレベルやネームバリューや競争率が太変えれば高いほど、やはり「前払い」で苦労すべきだと思うんですよね。
苦労の末、合格した時の喜びは大きいですし、先述したように、ラクして入っちゃった学生よりかは、ありがたみを噛み締め、そうやすやすとはリタイアしないと思います。

その一点をもってしてでも、やっぱり「受験」は、というよりも「一般受験」は必要だと思うのです。

記:2015/10/24

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