音版「カフェモンマルトル」(YouTube)もやっています♪

メールマガジンを発行している。

メールマガジンを発行している。

cyber

メールマガジンを発行している。

ジャズに関してのメールマガジンだ。

何種類か発行していたが、現在では一つだけで、「【Jazz Magazine】《ジャズのメールマガジン》」という、これ以上ベタで分かりやすいタイトルも無いんじゃんないか?という名前のメールマガジンだけを発行している。
(さぁ、登録しよう!→こちら

もとより、音楽の感動を言葉に置き換えること自体、不可能なことだということは、重々承知してはいる。音楽は言葉ではないし、言葉は音楽ではないことぐらい百も承知だ。

しかし、それでも自分の受けた感動や衝撃を文字に置き換え、少しでも多くの人に伝えたいという欲求、さらには、ジャズを通して得た興奮やスリルを、改めて冷静に自分の中で捉え直してみたいという好奇心もある。

そこで、毎回、無い頭をひねり回して、ジャズマンやアルバムのことをつらつらと書き綴る毎日が続いているわけだ。

なにせ、「人に読ませること」を前提としているわけだから、毎回「良い」「素晴らしい」「感動した」「オススメです」「買って損はアリマセン」だけじゃあ、あまりに馬鹿だ。

だって、毎日毎日、たとえば、10日も連続で、「このアルバムは良い。感動した」だけの内容のメールが送られてきてごらんなさい。私だったら3日で配信を中止しちゃいますよ。

もちろん、「良い」「素晴らしい」「感動した」という言い回しを使っちゃいけないというわけではない。 本当にそう思ったことならば、書くべきだと思う。

しかし、それ「だけ」じゃダメだということだ。

「あんたの感想は分かった。で、このアルバムそのものの魅力についてはどうなのさ?」と突っ込まれるのがオチだろう。

自分の主観だけの記述だけではなく、もう少しアルバムの聴きどころや、ミュージシャンの特徴、またジャズにまつわるエトセトラな話しもバランス良く混ぜなければ、「人様に何某かを紹介する読み物」としては成立しないと自分では思っている。

そして、それが、とても難しい。

たとえば、

“誰々というジャズマンは、何年何月何日に、アメリカのどこどこ州で生まれ、何歳のときに父親からトランペットを買ってもらい、それがきっかけで〈中略〉何年に初リーダー作の『なんとか』というアルバムを吹き込み、そのときのサイドメンは誰々と誰々という豪華な顔ぶれで…〈後略〉。”

という文章を書くのは簡単だ。手許にある資料を丸写しにすれば良いのだから。

しかし、そのジャズマンのよっぽどのファンならともかく、普通はこの手の記述って面白いだろうか?(それに、よっぽどのファンなら、既にそんなことぐらい知っている)

それとは正反対のアプローチもある。

『今日はどこどこで、何々をしてきました。まだまだ外は寒いねぇ。そんな日は、このアルバム!いいねぇ。涙がこぼれ落ちてくるよ。うん、誰々の熱いテナーサックスを聴いていると、ボクももっともっと頑張れなければなぁって気がするなぁ。ああ、なんて幸せなひとときなんだろう。このレコードに乾杯!さて、今夜はチーズを肴に何年製のワインでも飲みながら、誰々のレコードをかけながら過ごそうかな。じゃあ、みなさん、お休みなさい』的な「日常雑記的独白型」文章。

ちょっとオツムが弱そうな感じもするが、基本的には「イイ人」「親近感」が前面に出やすいため、好感を持たれやすいんだろうと思う。

また、こちらの文章の方が、単なる資料やバイオグラフィ丸写しの文章よりは面白いかもしれない。

しかし、毎回、毎回こういうネタばかりだと、読んでいる方としては飽きるのではないだろうか。

いや、読者が飽きる以前に、書いている自分が飽きてきそうだ。

たしかに、そういう「文体」を確立している寺島靖国氏や吉村浩二氏のような人も中にはいる。

彼らの文章は日常雑記的なエッセイ風のイントロから本題に入ることが多い。

とくに、吉村氏の場合、必ずといって良いほどジャズや名曲の紹介の文章の中に「ぼくの奥さん」、「ごはん」、「食べものは、おいしいよね」といったフレーズが出てくるが、これはもう神ワザの域に近いと私は思っている。

特に、「コルトレーンは多くの共演者に磨かれて成長していった」という趣旨の文章を「ごはん」のたとえ一つで書ききった氏の文章は、圧巻としか言いようがなく、初めてこれを読んだときには、爽やかな感動を覚えてしまったぐらいだ。

しかし、勘違いしてはいけないのだが、こういう文章って、文章の巧い寺島氏や吉村氏だからこそ出来、確立された「高度な芸」なのであって、一般の人が雰囲気や表面だけを真似ても、似て非なる単なる「B級寺島・吉村節」となるか、結局何が言いたいのか分からない、対象の定まらない独り言で終わってしまうのがオチだろう。

寺島氏の場合も、世間的なネタ、特に自分の身辺にまつわる内容から文章に入ってゆくが、キチンとアルバムの評論に落ちるようなレトリックが確立されているから良いのであって、このワザは、簡単そうで、意外と難しいものなのだ。

様々な読者がいる。

もっとオマエの本音や肉声を聞かせてくれ、という人もいるだろうし、反対に、アンタの好みはよく分かったけど、面識もないアナタの好き嫌いはハッキリ言って関心ないんだよね、だからもっとアルバムについての面白い情報を教えてくれよ、という読者だっていることだろう。

私がアルバム紹介の文章を書く際は、「自分の本音・主観」と「純粋な情報・客観性」の両方を混ぜるべきだと思っている。どちらか一方だけに偏ることは、自分の中の基準では中々難しいことで、無意識に軌道修正をしてしまっていることが多い。

だから、いつも切り口や、紹介の仕方、主観と客観のバランスについて考えてばかりいるようになってしまい、お陰で、最近の私のプライベートはメルマガ中心で回っているといっても過言ではない状態になってきている。

そして、こちらのメインのホームページの更新頻度が滞ってしまいがちなのも辛いところだ。

以前は、モダン・ジャズの名盤、そしてジャズ・ピアノの名盤紹介のメルマガを30回完結で発行していた。

30回完結、つまり、初心者にオススメのアルバムを30枚紹介して、それで完結、といった趣旨のメルマガだったのだが、意外にこれが好評で、バックナンバーを読ませてくれとか、再度、復刻版の配信をしてくれといった読者の要望が多かったシリーズだった。

この「30回完結」のメルマガを配信しているときは、ヘンな話しだが、とてもラクだった。

お盆などの長期休みのまとまった時間を利用して、一気に30話分の原稿を書き上げてしまい、あとは配信直前に、必要なデータのチェックや、若干の文章の直しを加えるだけだったからだ。

昨年のお盆は、東北に旅行をしたのだが、iBookを持参し、行き帰りの新幹線の中と、旅先のジャズ喫茶で、ほとんどの原稿を書き上げてしまったぐらいだから。忘れてしまった年代や曲名、ミュージシャンなどは「@@@」などの記号を打ってゆき、どんどん、次から次へと原稿が面白いように仕上がったものだ。

しかし、今は違う。

現在の「【Jazz Magazine】《ジャズのメールマガジン》」は、毎日、毎日、違うアルバムを一枚ずつ紹介してゆく趣旨にしているが、これがまた大変なのだ。

この大変さは、前述した「主観・客観のバランス」という文章を生む苦しさもあるが、それよりもむしろ、精神的なプレッシャーからそう感じているのかもしれない。

30回完結のメルマガを書いているときとは、プレッシャーや気持の負担が全く違うのだ。

そう、30回完結の場合は、ゴールが見えていた。この30回というノルマをクリアするために、ペース配分をすることが出来たし、自分の気持ちの中で、容易に弛緩をつけることが出来た。

しかし、現在の「【Jazz Magazine】《ジャズのメールマガジン》」は、特にゴールを定めているわけではない。

だから、ゴールの分からないマラソンを走り続けているような気分がずっと続いているのかもしれない。

このほんのちょっとした緊張感が日常生活の中に持ち込まれるだけで、一日の「ヘソ」や「シメの部分」がオボロ気ながら見えてくるので、それなりに有意義なことなのかなと、思っていないわけではない。

あとは、体調崩さず、このテンションをどこまで維持しつづけられるか、だけか。

記:2002/03/12

雑想 雑記カテゴリの最新記事