武士の一文/試写レポート

      2019/09/01

nihontou

最近、おもしろい映画を立て続けに観ています。

今日観た試写、キムタク主演の『武士の一文』も、なかなか楽しめました。

藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』『隠し剣鬼の爪』に続く3部作の最後の作品でがんす(←山形弁)。

キムタク、目が見えなくなった武士を好演してます。

奥さん役の檀れいもキレイでがんす(←山形弁)。

ただ、私の好みからいうと、この3部作の中では、やっぱり『たそがれ清兵衛』がいちばん良かったかな。

話のパターンというか輪郭、設定や舞台、下級武士が主人公という点は、3作とも共通しているので、なんとなくこのパターンに慣れてしまっているのかもしれない。

とはいえ、面白かったでがんすので、是非観ておくんなせぇ(12月より松竹でロードショーでがんす)。

▼原作本でがんす
隠し剣秋風抄
隠し剣秋風抄

あと、最近観た試写では、『椿山課長の7日間』が釣りバカ感覚で笑い、泣けた。

突然死した西田敏行が3日間だけ「あの世」から「この世」に戻ってくる話なんだけれども、「この世」での姿が、死ぬ前とは似ても似つかぬ伊東美咲。

なかなか、笑えて、最後はじーんときて、良かった、良かったな話でした。

美咲ファンも、余貴美子ファンも、志田未来ファンも、成宮君ファンも、映画館に走れ!(まだやってません)

原作は浅田次郎の新聞連載小説なんだけれども、浅田次郎といえば『地下鉄(メトロ)に乗って』もこの秋公開されますね。

個人的には、同じ浅田次郎作品だったら、そうだねぇ、どれか一つしか観れないとすれば、だんぜん『椿山課長』のほうをオススメしたいですね。

『地下鉄に~』も悪くないんだけれども、観終わった後、頭の中で反芻すると、色々なあら捜しをしてしまった映画なのです。とくに、常盤貴子の演技がね…。

それと、最近の映画じゃないんだけれども、昨日、ジェーン・フォンダにキャサリン・ヘプバーンの『黄昏』観ました。

じわーっとくる良い映画ですね。

我々夫婦も、ああいう老後を過ごしたいものです。ま、わたしはノーマンほど偏屈おっさんじゃないけどね。

『黄昏』を観て、なんだか人生のワビサビを感じて、じーんときてしまった私は、もう年なのでしょうか?

ええ、きっとそうでがんす(山形弁)。

さて、話もどって『武士の一分』の話でがんす。

なんといっても徳平役の笹野高支の演技がすごく光っていたと思います。

彼はキムタクの付き人的存在。

小さい頃からキムタク演じる笹野高支に仕え、身の回りの世話をしていた人なんですね。

映画を観れば分かるけど、この時代(江戸時代)って、身分のある人は、外出するときは必ず付き人を伴っていたんですね。

外出のときの付き人役から庭の掃除まで、武士階級の身分の人の細かな面倒を見てくれる、召使いみたいな人がいたわけで、その役を笹野高支がやっている。

で、すごくいい味だしてるんですよ。

映画の中のキムタクをより一層引き立てる、ピアノトリオでいえばベースのような存在。

もし私が映画の賞の審査員だったら、私は彼に助演男優賞をあげたいぐらい。

劇場に観に行った人は、是非笹野高支の演技にも注目してみてください。

ところで、山田洋次の藤沢周平三部作ですが、私はこのシリーズ3作を通じて気に入っていることが1つあります。

この3部作、極端なこといえば、設定や大まかな筋書きはほぼ同じです。

もちろん、それぞれが独立した個々の作品なので、細かな差は沢山ありますが、主役はすべて剣の腕は立つ下級武士という大きな共通点があります。

で、3部作とも、下級武士ゆえの少ない禄高でありながら、ガメツイ野望など持たず、分をわきまえて、慎ましく生活しているところも共通しています。

そして、何かの事件や、出来事がキッカケで、物語の中盤以降、主人公は闘うことになる。

私はこの闘いのシーンが好き。

いや、好きというと語弊があるけれども、刀を持つことの怖さ、刃物で切りつけられる怖さが身体感覚でリアルに伝わってくるのです。

間違っても、水戸黄門や遠山の金さんのような派手でカッコイイ格闘シーンではない。

眠り狂四郎や座頭市のような優雅さのともなった殺陣とは対極の世界です。

華麗に相手をバサバサ切り捨ててゆく姿とは対極の殺陣が三部ともに共通しているのですね。

時代劇では、短い時間の中、何人もの侍が、まるでショッカーの戦闘員が仮面ライダーにやられてゆくように、あっさりと倒れてくれます。主人公も無駄のない動きで、的確に相手を仕留めます。

ところが、山田洋次三部作にはそれがない。

たった一人を斬るということ。これって、じつは恐怖と葛藤のともなった大変な世界なんだということが身体感覚で伝わってくるのです。

刀を構え、相手と対峙する恐怖感や、なかなか思うように相手を斬れるものではないという当たり前の現実が、生々しく描写されている。

スクリーンに対峙している我々にも「斬られるかもしれない!」という緊張感、恐怖感とともにアドレナリンが出てくるのです。

それは「たそがれ清兵衛」も「隠し剣鬼の爪」も、今回の「武士の一分」にも共通しています。

最終的にはあっけないほど勝負がついてしまいますが、このカタルシスの伴わない無愛想なほどの勝負の幕切れも、まぁそういうもんだろうなぁ、と妙に納得させられます。

特に「隠し剣鬼の爪」の長瀬正敏の殺陣がよかった。

構えにしろ、剣の振り方も、時代劇の華麗な殺陣を見慣れていれば、むしろ格好悪いぐらいに見えるかもしれません。

構え方もちょっと腰が引けた感じで、間違っても堂々とした構えではありません。頼りないぐらいです。

相手に「隠し剣」だと警戒&勘違いさせて、仕留めた戦法も、ある意味セコい(笑)。

でも、命を張った勝負では、むしろそれぐらいのほうがリアルに映るのです。

今回の「武士の一分」では、まずキムタクに目隠しをして殺陣をやってもらい、目が見えない闘いの恐怖を味わってもらったのだそうです。

だからこそ、盲目になった剣士の“必死さ”がリアルにフィルムに刻み込まれていたのでしょう。

もちろん見どころは他にもたくさんありますが、物語終盤の決闘のシーンは要注目です。

五感を研ぎ澄ませ、死を覚悟したキムタクの、文字通り「必死」なたたずまいは、新しいキムタクの魅力を存分に引き出していました。

師匠から免許皆伝のときに授かった「必死、すなわち生くることなり」という言葉そのものの殺陣を味わえることでしょう。

私の「ベース道」にも取り入れようかな。

「必死、すなわちグルーヴなり」(笑)。

いやいや、切羽詰ったところで良いグルーヴは生まれそうもないな。

私のベース弾くときの心情は、「脱力」「リラックス」「省エネ」「百撃必殺」ですから(笑)。

間違っても「チェストー!」な薩摩示現流ではないですね。対局の世界です。

記:2006/09/28

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