カナリア/試写レポート

   

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カルト教団、教団テロ、信仰、信者の子供、少女の援助交際…。

語られるべきキャッチーな対象やテーマがあまりのも多いゆえに見逃されがちなことなのかもしれないが、『カナリア』は音の綺麗な映画でもある。

たとえば、母親の甲田益也子演ずる道子がオウム真理教、……じゃなくて「ニルヴァーナ」というカルト教団に入団する際に読み上げる誓約書の紙のカサカサという音。

読み上げた後に拇印を押す際の静かだが確実に「押した!」を強く感じさせるデリケートな音、盲目の老婆が手探りで折る鶴の紙の音、など。

紙の音なんて、この音だけを強調して録るぞ!となると、結構耳に痛い高音がツンツンした「ガサッ!ガサッ!」って音になりそうだが、「カナリア」では、これらの日常的にあまり意識しない音が、リアルにクリアに表現されている。

あまりに自然なぶん、違和感なく鑑賞できてしまうゆえ、余計に録音担当者の苦労が多くの人には見過ごされてしまうんだろうなぁと思った。

あと、声、だね。

由希(谷村美月)の声。

彼女の声は甲高い。

しかし、キンキンとしていない。

独特の丸みと柔らかさがある。

だから、あの甲高い声で、文字数の多いセリフをまくしたてていても、頭痛がするどころか、むしろそれが心地よいほどだった。

由希とは、主人公と行動を共にする女の子。

ストーリー紹介もかねて、もう少し詳しく説明しよう。

石田法嗣演じる12歳の主役の少年、岩瀬光一は、母親の道子(甲田益也子)がカルト教団「ニルヴァーナ」に入信したため、妹と共に強制的に出家させられ、母親とは別の教団施設で、他の子供たちと共に共同生活を営んでいた。

教団が引き起こしたテロ事件。教団の幹部となりテロに関わっていた母親は他の幹部とともに全国指名手配され、強制捜査のはいった施設に残されていた子供たちは、関西の児童相談所に預けられた。

彼と妹もそこに預けられたわけだがが、引き取りにきた祖父(母の父)は、反抗的な光一の引き取りを拒否し、妹だけを引き取る。

光一は児童相談所を脱走し、妹を取り戻すため東京の祖父の家に向かうが、その途中で、援助交際を持ちかけた男から逃げ出そうとした同い年の少女と偶然出会い(出会い方がすごいが・笑)、結局物語の終盤まで行動を共にすることになる。

無口な主人公とは対照的に、多感な由希はよく喋る。

まあ役どころとしては主人公が無口なぶん、物語のナレーターと、一般的な社会通念をゲストに投げかけて、相手の特異さを浮き彫りにするキャスター的な役割も背負わされているわけだから、多弁なことは仕方ないのだが、一般に、このような役柄の人って存在が鬱陶しく感じがちなものだ。

しかし、由希を演じる谷村美月が京都弁で話す声は、12歳の少女の甲高いトーンにもかかわらず、頭にキンキン響くことはまったくなく、むしろ柔らかく心地よく空間を包むのだ。

この2点が、非常に印象に残りましたね。

もちろん、映画そのものも大変な力作で、ヘヴィな題材をきちんと消化して我々に突きつけてくれています。

石田法嗣が柳楽優弥に似ている、ということもたしかにあるかもしれない。

しかし、もちろん、そういった理由からではなく、私は是枝監督の『誰も知らない』を強く思い出しながら観ていましたね。

大人の勝手な都合で絶望的な状況に追い込まれても、それでもなおかつ強く生きようとする、いや生きざるをえない子供たちが描かれているという点においては、両作品は共通している。

あと、だんだん主人公の衣服が泥で汚れてゆくといったビジュアル的な面でも、なんだか『誰も知らない』を思い出してしまった。

ヘヴィな気分になり過ぎずに、主人公たちの旅に意識を淡々とシンクロさせることが出来たのは、やはり静かにキチンと「それ以上でも以下でもなく、音としてキチンと主張していたSE」と、谷村美月の柔らかく甲高い声の力が大きい。

音の心地よさが、陰ながらこの作品を支えているのだ。

あと、どうでも良いツッコミを一つ。

なんだかフォークダンスのような振り付けで、規則正しくキスを繰り返すりょうとつぐみのレズシーンはいまいちだったなぁ。

レズビアンカップルのワケありっぽい旅ということが分かるまでは、ちょっと時間を要したし、それまでは、ずっと劇団かなにかの練習風景だと思っていたほどだから。

観た日:2005/03/03 

記:2005/03/06

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