賢者、もしくは愚者としての寅さん~『男はつらいよ』考

      2021/02/24

違和感を感じた人物像

今さらながら『男はつらいよ』を観ている。

最初からひとつずつ順を追った鑑賞をしており、気付けば、あと少しで全エピソードを制覇する段階にまで達している。

正直、私は『男はつらいよ』という映画の世界観や、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎というキャラクターには長らく馴染めなかった。

違和感すら覚えていたと言っても良い。

私がリアルタイムで『男はつらいよ』を観たのは、すでにエピソードの終盤に差し掛かっていた頃で、寅さんよりは、甥の満男(吉岡秀隆)が主人公に近い活躍をしている『拝啓車寅次郎様』や、最終作の『寅次郎紅の花』だった。

第46作 男はつらいよ 寅次郎の縁談 HDリマスター版 [DVD]第46作 男はつらいよ 寅次郎の縁談

第47作 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 HDリマスター版 [DVD]第47作 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様

その時、つまり、1990年代に20代だった私が感じた「寅さん」という人物像は、違和感以外の何物でもなかった。

もってまわった昭和風演劇チックな節回しが、平成の世の中の空気からは明らかに浮いた存在に感じた。

性急に結論を求めるまだまだ尻の青い時期だったために、渥美清が醸し出す無言の演技をキャッチできる感性が育ってなかったからだと思う。

とにもかくにも、当時の私にとっての寅さんという存在は、リアリティが感じられない浮世離れした妙なおっさん、それ以上でもそれ以下でもなかった。

もちろん、それなりに「味」のようなものは感じられたのだが、なぜ時代劇がかった話し方をする妙なおじさんがこんなに人気なのだろう?と正直、当時は思っていたものだ。

社会の秩序に縛られず、自由奔放に生きる「おじさん主人公」であれば、同時上映の『釣りバカ日誌』で西田敏行が演じる浜ちゃん(浜崎伝助)のほうにシンパシーを感じていたものだ。

彼のキャラクターや映画の世界観は、たしかに破天荒でコミカルではあるけれども、日常的な現代社会の延長線上に存在するものとして、少なくとも寅さんよりはリアルに受け止めていたし、ストレートに笑える要素が多かったのだ。

満男という甥の存在

そして、それから20数年を経て。

ふとしたことをキッカケに、改めて第一作目の『男はつらいよ』、次に『続・男はつらいよ』というふうに、順を追ってシリーズを鑑賞を続けているうちに、少しずつではあるが、寅さんというキャラクターに親しみを覚え、なぜ、かくも日本人、というよりもむしろ現在は、日本好きな外国人に好かれているのかが分かってきたような気がする。

山田洋次監督の脚本や映像美などの手腕に関しては、既に多くの論者が論評しているため、ここでは割愛するが、シリーズを通して感じられる寅さんの姿は、エピソードを重ねるにつれ「愚者」もしくは、それをも超越した現代の「仙人」のようにすら見えるようになってきたのだ。

人の一生は、生まれた時の純粋で汚れのない「無垢」からスタートして、戦いや創造などの経験から知恵を身につけ、最終的には「愚者」に至るとよく言われている。

こんな感じね。

無垢⇒孤児⇒戦士⇒世話役⇒探求者⇒破壊者⇒恋人⇒創造者⇒支配者⇒魔術師⇒賢者⇒愚者

この12の段階を経て、人は最終的に「愚者」に至るというわけだが、寅さんの生涯も、まさにこの過程を感じさせるものがあるのだ。

もちろん、後半の「支配者」や「魔術師」に当てはまる時期があったとは思えない。
これは、カタギの人間が親になる、あるいは出世して社長や管理職、上司などになった段階のことだと思われ、渡世人の寅さんには無縁なステップなのだろう。

しかし、それ以外の段階のすべてが円熟味を増していく寅さんに当て嵌まるような気がする。

寅さん一人を追いかけているだけでは、見えにくかったこのステップも、後半になるにつれ、つまり甥の満男に当てられるスポットの比重が増すにしたがって、少しずつ「客観的に見た寅さん」という存在が浮き彫りになってきた。

それは、寅さんを演じる故・渥美清氏の健康状態とも関係があったのだろう。

健康状態の悪化を押して映画出演を繰り返していた渥美氏だが、制作サイドは、出来るだけ寅さんの登場場面を減らすかわりに、甥の満男のエピソードに割く比率を増やした。

すると、『北の国から』の純くんとキャラがかぶる、優しいんだけれども不器用で頼りない満男の生き様と、彼が敬愛する叔父の寅さんの生き様を否が応でも対比せざるを得なくなってくる。

寅次郎というキャラもたしかに優しくて不器用ではあるが、満男はまだ若くて人生経験が少ないぶん、寅さんという存在の安定感が増してきているのだ。

もちろん、体調の関係もあったり、人生の年輪を出そうという演出意図もあるのだろうが、満男にウェイトが置かれ始めた頃から寅さんは、あたかも満男という太陽に照らされる月のような存在のようでもある。

一方、満男の方も「賢者」もしくは「愚者」に見守られる成長途上の若者という姿で、寅さんと満男という両輪があるからこそ、後半のエピソードになればなるほど、私は興味深く再鑑賞しているのかもしれない(最初は、あれほど違和感を感じていたにも関わらず)。

この二人が醸し出す独特なハーモニーは、寅さんは、満男の父でも兄でも祖父でもない「叔父さん」という絶妙な距離感を持つポジションが幸いしていたのかもしれない。

しかも、カタギな会社勤めの叔父さんではなく、風来坊で自由な生活を送り、数々の恋愛、失恋も含めた人生経験を豊富に積み重ねてきた自由人という立場も良い。

初期の寅さんは、このようなカタにはまらぬ自称「渡世人」であるポジションが、コメディが成立する大きな要因をなしていたが、年齢を重ね、甥の満男が成長するとともに、その本質は変わらずとも、少しずつ置かれるポジションが変化しているところが興味深い。

そう、寅さん自身は、根っこの部分は初期から後期まで、ブレることなく正真正銘の車寅次郎であるにもかかわらず、劇中の中でのポジションが、帝釈天の御前様(笠智衆)とまではいかないにしろ、俯瞰的に物事を見渡すことが出来る「賢者」、もしくは「愚者」のように見えてくるところが興味深い。

そして、私は、初期の伝法な口調の寅さんよりも、後藤久美子が登場する「泉三部作」前後あたりより、「賢者」もしくは「愚者」の風格をまといはじめた寅さんに好感を覚える今日この頃なのだ。

記:2017/06/10

関連記事

>>大好きな『北の国から』について、敢えてイジワルな書き方をしてみた

 - 映画