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【ブルースの歴史・4】 ブラインド・ブレイク編

      2017/10/08

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text:高良俊礼(Sounds Pal)

B.O. Blind BlakeBest of Blind Blake

>>【ブルースの歴史】ブラインド・レモン・ジェファスン編の続きです。

レオラ・B・ウィルソン

ブラインド・レモン・ジェファスンが最初のヒット・ソング《ロング・ロンサム・ブルース》のヒットを放った1926年、その同じ年の7月に、パラマウント・レコードが手配したイリノイ州シカゴで、レオラ・B・ウィルソンという女性シンガーのレコーディングが行われていた。

彼女自身は一介のボードヴィル・シンガーであり、その後のブルースに大きな影響を与える存在でもなければ、そのレコード『Dying Blues』が飛ぶように売れたという記録もない。

しかし、彼女の伴奏者としてスタジオにやってきたギタリストがとんでもない男だった。



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ブラインド・ブレイク

その時レコーディングされたレオラの楽曲《Dying Blues》では、しっとりとした曲調の中で、的確なコード・チェンジと、唄心に溢れる見事なオブリガードを同時に奏でるそのバッキングは、同時期のどのギタリストの演奏と比べても高度な洗練美と完成度を誇るものであった。

男の名はブラインド・ブレイク。

1896年フロリダ州ジャクソンヴィル生まれで本名をアーサー・ブレイクと云ったが、盲目であるため「ブラインド・ブレイク」の通り名で知られていた。

パラマウント・レコード スカウト網

パラマウントのスカウトマンが後に回想として語るところによると「このレコーディングのためにわざわざフロリダから呼び出した」とあるが、これは事実かどうか疑わしいところであり、ブラインド・レモン同様に十代の頃から楽器を覚え、旅芸人一座に加わって東海岸一帯を演奏して回っているうちに、第二、第三のベッシー・スミスやマ・レイニーを世に出そうとしていたパラマウント・レコードのスカウト網に、芸人仲間であるレオラと共にかかったのではないかというのが、どうも真相に近いように思える。

26年7月の初レコーディングから僅か2ヶ月後に、ソロ名義での《Early Morning Blues》《West Coast Blues》の2曲をレコーディングしており、特に後者では、ラグタイム・ピアノの演奏(右手と左手による複雑なコンビネーション)を、1本のギターで完全に体現しているかのような演奏は、当時の音楽シーンに衝撃を与えた。

フォロワー

レモンと同じように、レコードが広く聴かれることによって名声を博したブレイクであったが、両者のスタイルは全く対照的であった。

唄に合わせて自由自在に形を変えてゆくレモンのギターは、時に小節やタイム感に微妙な“ずれ”を生じさせることがままあり、その感覚を捉えることの出来るミュージシャンはいなかったが、ブレイクの、まるで自動ピアノの演奏のように正確で、どのフレーズも小節にキチッと収まったリフやソロは、多くのフォロワーを生む。

直接の影響を受けた人物としては、ブラインド・ボーイ・フラー、レヴァランド・ゲイリー・デイヴィスといった、後の「イースト・コースト・スタイル」と呼ばれる洗練されたラグタイム・ギターやスロー・ブルースを得意とする名手達。そして、南部ジョージアで12弦ギターで見事なラグやバラッドを聴かせるブラインド・ウィリー・マクテル。更には「バンド仲間」として一時期シカゴのサウスサイドのアパートでたむろしていたビッグ・ビル・ブルーンジィーやタンパ・レッドといった錚々たる顔ぶれが並ぶ。

ブラインド・ブレイク ギター 疾走感

以前拙稿「戦前ブルースの深い闇」の項で名前を挙げたミシシッピ・ブルースの大物であるイシュマン・ブレイシーもレコーディングのためにシカゴを訪れた際にブレイクと会い、その時の感想を

「シカゴでブレイクと会ったんだが、ヤツにはかなわない。物凄いスピードの演奏なんだ。ブレイク、タンパ・レッド、ロニー・ジョンソン、スクラッパー・ブラックウェルなども居て、どいつも凄腕の連中だったが、ブレイクの速さは飛びぬけていた」

と、興奮気味に語っている。

そうなのだ、ブレイクのギターが醸す独特の疾走感は、誰もが憧れて誰もがモノにしようとしたが、結局のところそれを完全にマスターして進化させたギタリストは結局現れなかった。

ラグタイム・ギター

ブラインド・ブレイクのギター奏法である「ラグタイム・ギター」。
これはアコースティック・ギター特有のテンション(弦の張り)とクリアな音色を活かした奏法である。

また「一人でバンドのオケが付いているような奏法」であったために、戦後エレキ化~バンド化していったブルースの中では、次第に廃れていったスタイルではある。

しかし、このスタイルがその後ブレイクのコピーのような形以外では発展しなかったところを見ると、ブレイクがその創始者にして完結者だったからなのだろうと、強烈に想わざるを得ない。

レコーディング数

さて、ブラインド・ブレイクはパラマウントでレモンを凌ぐ絶大な人気を誇り、弾き語りブルースマンとして80曲、ジャズ・バンドとのセッションや女性シンガーのバック・ギタリスト、その他様々な形で、1932年6月のラスト・セッションまでの間に何と180曲を以上ものレコーディングを行っている。

レコーディングが途切れた原因は、大恐慌の煽りを受けたパラマウントがレコード部門から撤退したからであるが、もし、パラマウントが1930年代にも彼のレコーディングを続けていたら、もしかしたら全盛期のデューク・エリントンやカウント・ベイシー・オーケストラのような、一流オーケストラとの共演盤などが、或いはもしかしたら出ていて、現在の私たちのブルースやジャズに対する認識は、またちょっと違ったものになっていたかも知れないなどと想像するのも楽しい。

ブラインド・ブレイク 最期

例によって彼の人生も、その大部分が謎に包まれていたものであり、つい最近までその消息も「不明」とされていたが、アンジェラ・マック女史をはじめとする研究家たちの熱心なリサーチによって、「1934年12月1日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで、肺結核により救急車で搬送中に死亡」という彼の最期が明らかになり、その墓地の所在まで判明した。

ブラインド・ブレイクもまた、38歳という短い生涯のうちのほんの数年の間に音楽史に大きな足跡を残した巨人であるが、その謎めいた最期が、彼の死から実に77年後の2011年に明らかになるなんて、誰が想像しただろう。

戦前ブルースはそういう意味でも深い。

色んな意味で本当に底無しに深い“何か”を持っている音楽なのだ。

>>【ブルースの歴史・5】アトランタ(1)~バーベキュー・ボブ編に続く

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

記:2014/12/13

 - ブルース ,

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