【ブルースの歴史・1】W.C.ハンディ編

      2017/05/19

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W.C. Handy: Father of the Blues (Journey to Freedom)W.C. Handy: Father of the Blues

text:高良俊礼(Sounds Pal)

ミシシッピ・デルタ地帯

1903年に作曲家のW.C.ハンディがアメリカ南部ミシシッピ・デルタ地帯を旅行中に、そこでたまたま耳にした「それまで耳にしたことのない、全く独自の哀愁を帯びた黒人音楽」を耳にする。

それは、1人の男がギターの弦にナイフの柄を押し付けてスライドさせるという、今のボトルネック/スライド奏法の原型といえるようなものであったという。



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メンフィス・ブルース

その頃この音楽に正式な名称が付いていたかどうかは定かではないが、ハンディはこの5音階8小節で演奏される、哀切極まりない音楽を、できるだけ正確に採譜し、当時ダンス・ショーやラグタイムなどを演奏していた自身のバンドのレパートリーにブルースを取り入れるようになる。

彼が「ブルース」を取り入れた楽曲として初めて人前で披露したのは、1909年にメンフィス市長の選挙キャンペーンのために作曲した《ミスター・クランプ》。

この曲が大いに評判を呼び、これに手応えを感じたハンディは、《ミスター・クランプ》をもっと手直しして《メンフィス・ブルース》という曲を作曲した。

これは1912年のことである。

1912年という年

この年は、世界中を揺るがす様々なニュースが駆け巡った年である。

まずは東洋の大国であった清が滅び、タイタニック号の沈没というショッキングな事故が世界中を震撼させ、そして「世界の火薬庫」と言われたバルカン半島で、第一次バルカン戦争が起こった。

芸術の分野では、音楽的な調性の域を大きく逸脱したアルノルト・シェーンベルクの歌曲《月に憑かれたピアノ》や、フランツ・カフカの『変身』という、グロテスク/不条理をモチーフにした作品がセンセーショナルを巻き起こし、欧米人の意識の根底には、世の中がこれから大きく変換していくであろう不気味な予感を、誰もがうっすらと不気味に感じていた。

ついでに言うと日本では明治天皇が崩御し、大正時代が始まったのがこの1912年である。

セントルイス・ブルース

ハンディの「ブルース」がヒットした背景には、こういった世情の後押しもあったのだ。

《メンフィス・ブルース》の楽譜は、彼の思惑以上に大ヒットし、異例のベストセラーを記録した。

購買層は主にニューヨークシカゴ、やセントルイスなどの都市部で活動していたジャズ・ミュージシャン達だったが、「ブルース」という聴いたことのない音楽への興味は、クラシックを指向する音楽家や学生達、または一般家庭にまで幅広く及んだ。

ハンディは《メンフィス・ブルース》のヒットを受けて、さらに《セントルイス・ブルース》、《イエロー・ドッグ・ブルース》、《ビール・ストリート・ブルース》などの曲を続けざまに作曲/執筆する。

ルイ・アームストロング W.C.ハンディを唄う

これらの曲は、ジャズ・ファンならばルイ・アームストロング、ベッシー・スミス、ベニー・グッドマンなどの演奏でどれかは聴いたことがあるだろう。

特に《セントルイス・ブルース》は、何といっても「ブルースの皇后」ベッシー・スミスの歌唱や、ルイ・アームストロングの『W.C.ハンディを唄う』でのヴァージョンが有名であるが、ジミー・スミスの名盤『ザ・キャット』や、ハービー・ハンコックにフィーチャリングされたスティーヴィー・ワンダーらの、モダンなアレンジで進化を遂げたヴァーションも傾聴の価値のある好演だ。

プレイズ・W.C.ハンディプレイズ・W.C.ハンディ/ルイ・アームストロング

W.C.ハンディ ブルースの父

さて、ブルースを最初に世に知らしめた男、W.C.ハンディは、このようにレコードという録音物が世に普及する前に、ブルースが世に浸透する下地を作った功労者として、現在彼は「ブルースの父」と呼ばれ、顕彰されている。

マ・レイニーの項でもちょこっと触れたが(こちら)、彼の業績は、1920年代の「クラシック・ブルース」隆盛への嚆矢となる。

しかし、彼が実際にアメリカ南部ミシシッピで目撃した、弾き語りのプリミティヴな「ブルース」が、世に知られるようになるには、まだまだ先の話になる。

>>【ブルースの歴史・2】カントリーブルース編に続く

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

記:2014/10/31

 - ブルース ,

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