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ジャズと映画と本の日々:高野雲

ミシシッピ・デルタ・ブルース(後編)

      2017/11/20

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text:高良俊礼(Sounds Pal)

>>ミシシッピ・デルタ・ブルース(前編)の続きです。

ドッケリー・ファーム

黒人でありながら、白人やネイティヴ・アメリカンとの混血でもあり、白人社会からはもちろん、黒人社会からも人種的孤立を感じる立場にあったチャーリー・パットンと、元々は教会で牧師をしていたが、些細な揉め事から殺人犯になってしまい、信仰とは正反対のブルースの世界に流れてきたサン・ハウス。

彼らはミシシッピ・デルタ地域にある巨大農場「ドッケリー・ファーム」で出会ったとされる。そこは過酷な肉体労働の場であった。

炎天下の広大な敷地で行う作業は、ひたすら荒れ野を開墾して綿畑を作ること。

「作業」というよりは「労役」に近い住み込みの重労働はしかし、ハウスやパットンのような“流れ者、はぐれ者”を多く呼び寄せた。



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ミシシッピ・デルタ・ブルース

先に述べたハウスとパットンのような出自を持つ者は、当時決して特異な存在ではなく「共同体の秩序から遠ざけられている者達」というひとつの大きな括りで扱う事ができるほど、南部のあちこちに溢れかえっていたのだ。

パーチマン・ファームのような巨大農場は「とりあえず住む所と日銭が欲しい」と集まってくるアウトサイダー達を、常に大量に受け容れることで、ひたすら開墾地の面積を広げ、より巨大なものへと成長していった。

パットンやハウスといったブルースマン達は、過酷な労働や、ならず者達との緊迫した生活の中で不安や不満や鬱屈を溜め、労働から解放される僅かな時間に、あらん限りの大声で吠えるように唄い、ギターをバンバン叩くように演奏した。

彼らの暴力的で荒々しい音楽は、同じ境遇に身を置く黒人達の心に響き、口づてに評判となって農場内で唄われるようになる。

やがてその音楽は、彼らの演奏を目の当たりにした労働者や、あるいは別々の時期に農場から去ったパットンやハウスらの手によって南部一帯に拡がって、いつしか「ミシシッピ・デルタ・ブルース」と、呼ばれるようになった。

ロバート・ジョンソン

彼らをアイドルとして追いかけ、最初の頃に「お前みたいなヘタクソは、ちゃんとギターが弾けるようになって人前に出てこい!」と激怒されたのが、若き日のロバート・ジョンソンである。

数年の放浪から戻り、再びハウスの前でギターを弾いた時には「別人のように上手くなって」いて、ハウスら歴戦のブルースマンのド肝を抜いたあの天才だ。

そこから“ミシシッピ・デルタ・ブルース”は、徐々に形を整え、戦後のシカゴ・ブルースへと至る一本の巨大な道を作り、その過程でエルヴィス・プレスリーというロックン・ロール・スターが生まれ、海を渡って辿り着いた先のイギリスで、後にローリング・ストーンズやビートルズとなる少年達の耳を虜にした・・・。

音楽の根源に行くはずだった話が、いつの間にかルーツを遡ってまた巡礼する旅の話になってしまった。

音楽のルーツを辿りながら、あるいは意識しながら聴くことは、想像力をとことん刺激してくれて本当に楽しい。

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

※『奄美新聞』2009年9月13日「音庫知新かわら版」掲載記事を加筆修正

記:2014/09/26

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