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コルトレーンからの「いじめ」?ビル・エヴァンスがマイルス・バンドを退団した理由

      2017/09/25

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エヴァンスの功績

ビル・エヴァンスは、マイルス・デイヴィスのグループに在籍していた期間は?
⇒7ヶ月

短い!

もちろん、その短い在籍期間中に、『1958マイルス』という傑作アルバムのレコーディングに参加しており、わずか7ヶ月とはいえ、エヴァンスは、マイルスが追求する音楽に十分以上の貢献を果たしたといえるだろう。

ビル・エヴァンスの存在がマイルスに与えた影響は大きく、短いながらもエヴァンスはマイルスの音楽人生の中においては、影響力のあった人物のひとりだったことは、後に脱退したエヴァンスをマイルスは『カインド・オブ・ブルー』のレコーディングのために呼び戻したことからも分かる。

実際、マイルスにラフマニノフやラベルなどのクラシックを聴くのを薦めたのはエヴァンスであるし、マイルスはそのようなエヴァンスのことを良き後輩として可愛がっていた。

このように親分からの寵愛を受けていたはずのエヴァンスは、なぜマイルスのグループにわずか半年強しか在籍していなかったのだろう?



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コルトレーンからの逆差別が原因?

そこで、浮かび上がってくるのが、バンド内における「逆差別」であり、特にジョン・コルトレーンがエヴァンスのことを忌み嫌っており、それを苦にしたエヴァンスはピアニストを続けるか否かまで悩み、精神科の医師にも相談していたという言説だ。

この話だけで判断してしまうと、どうしてもコルトレーンの存在が、バンド内におけるエヴァンスに居心地を悪さを感じさせた元凶と判断してしまいがちだ。

しかし、はたして、エヴァンスの在籍期間の短さは、コルトレーンの「逆差別」だけが原因だったのだろうか?

マイルスのポリシー

マイルス・デイヴィスは、自分が雇うメンバーに関しては、「良いサウンドを演奏しさえすれば、肌の色が緑だろうが、吐く息が赤かろうがオレは雇うぜ」というようなことを明言していた。

自伝にも書いてあったし、たしか、この言葉は、『クールの誕生』をレコーディングした時に、白人サックス奏者のリー・コニッツをメンバーに加えたあたりに放ったセリフだと思う。

マイルス・デイヴィス自伝マイルス・デイヴィス自伝

とにかく、貪欲なまでに良い音、そして新しいサウンドを追求&模索しつづけたマイルスは、1958年にレッド・ガーランドの後釜ピアニストとして、白人ピアニストのビル・エヴァンスを雇い入れた。

黒人ピアニストのレッド・ガーランドは、リズミックかつスインギーなプレイを身上とするタイプであることを考えると、エヴァンスの起用は、マイルスにとっては大胆な方向転換だったのだろう。

それは、当時「ザ・リズムセクション」と呼ばれていたフィリー・ジョー・ジョーンズ、ポール・チェンバース、レッド・ガーランドのトリオが放つ、ゴキゲンなグルーヴを土台に、今度はより深いハーモニーの要素を付加することをマイルスは考え、実際『マイルストーンズ』のレコーディングより、その試みに着手している。

MilestonesMilestones

しかし、モードの理解が今ひとつだったのか、あるいは、マイルスが示すハーモニーに反感を感じたのか、レッド・ガーランドは、マイルスと口論をした末、レコーディングを途中で放棄し帰ってしまう。

この段階で、おそらくマイルスの頭の中では、レッド・ガーランドがピアニストである限り、これ以上のハーモニーの探求は難しいと考えたに違いない。

そして、ガーランドに限らず、クラシックの素養のないピアニストを雇い続ける限り、同じ事態を繰り返すとも考えたのだろう。

『マイルストーンズ』の段階から、マイルスが欲したピアニストのタイプは、ハーモニーの探求を共に出来る人間、つまるところ、クラシックの教養があるピアニストだったのだと思う。

マイルスは、ニューヨークに“上京”するための口実とはいえ、クラシックの名門であるジュリアード音楽院に入学している。

クラシック方面の造詣もあったマイルスのことだから、もちろんリズミックな側面の追求もあっただろうが、それ以外に和声への興味も人並み以上にあったことは想像に難くない。

だからこそ、白人であるエヴァンスを躊躇なくバンドのメンバーに引き入れたのだろう。

そして、エヴァンスがマイルスのグループにもたらした影響は、思いのほか大きく、『1958マイルス』では、従来のマイルスのグループが放つサウンドよりも、一段と深みとデリケートな美しさに磨きがかかったサウンドに進化している。

1958マイルス+21958マイルス+2

また、退団したエヴァンスを呼び戻してレコーディングをした名盤『カインド・オブ・ブルー』もエヴァンスのピアノなくしては完成しえなかっただろう。

もっとも、ブルースナンバーの一曲のみ、ウイントン・ケリーにピアノを弾かせているが、それ以外の楽曲、たとえば《ブルー・イン・グリーン》は、マイルスのクレジットとなってはいるが、実際のところは、曲の骨格からハーモニーの形成にいたるまでの多くがエヴァンスのアイデアであることが分かっている。

Kind of BlueKind of Blue

エヴァンスと他のメンバーとの関係

エヴァンスの起用がマイルスにとっては、音楽的には大きな前進を果たした。

では、エヴァンスを除いたメンバー全員が黒人だった、当事のマイルスのグループにおけるエヴァンスの境遇はいかに?

まずは、「ヤク中仲間」としては、フィリー・ジョー・ジョーンズとは意気投合していたようだ。

実際、『カインド・オブ・ブルー』のレコーディングの2ヶ月前に録音されたエヴァンスのリーダー作『グリーン・ドルフィン・ストリート』を録音した際のドラマーはフィリー・ジョーだし、『カインド・オブ・ブルー』の録音から20年後のエヴァンスのリーダー作『ゲッティング・センチメンタル』でもフィリー・ジョーはドラムを叩いているので、彼らの交流は絶えることなく長い間続いていたのだろう。

また、キャノンボール・アダレイとも良好な関係を構築していたようだ。

エヴァンスがマイルスのクインテットを去った約3年後に、自身のリーダー作『ノウ・ホワット・アイ・ミーン』において、エヴァンスをピアニストとして起用していることからも、それは分かるだろう。

のみならず、このアルバムの冒頭を飾るのは、エヴァンスのオリジナル・ナンバー《ワルツ・フォー・デビー》だ。

しかし、ジョン・コルトレーンとエヴァンスはあまり折り合いがよくなかったようだ。

コルトレーン「だけ」が原因か?

エヴァンスは、トレーンから露骨な「逆差別」を受けたかどうかまではハッキリとはしておらず、憶測の域は出ないが、少なくとも、コルトレーンは白人であるエヴァンスの存在を認めていない節があったことはマイルスの自伝などから推測できる。

だからといって、7ヶ月というエヴァンスの短いマイルスバンドの滞在期間の原因は、コルトレーンとの折り合いが悪かったとことだけが原因ではなさそうだ。

マイルス・バンド退団後も、エヴァンスは「親愛なるジョンへ」という出だしから始まり、「今、ゴルフ場にいるんだ」というような、今の自分は心身ともにリフレッシュ中であるという手紙を送っていることからも、少なくともエヴァンスとトレーンは「手紙のやり取りをする仲」ではあったようだ。

犬猿の仲であったら、そうはいくまい。

そのことからも、少なくとも露骨なイジメだったり、表面だった誹謗中傷のようなものは受けていなかったのではないかと思われる。

職場でいえば、他の業界からヘッドハンティンされて転職してきた社員に対して、「仕事は出来るんだろうけど、なんだか今までの職場の雰囲気とは違うヤツが入ってきたな」という目線でコルトレーンはエヴァンスのことを見ていたことは確かだろう。

そして、その目線が、エヴァンスにとっては「居心地の悪い」雰囲気を形成していたことは想像するに難くない。

しかし、具体的に何かを言われた、何かをされたという資料、記録が残っていない以上、コルトレーン「だけ」が原因で、エヴァンスがマイルスのグループを辞めたとは考えにくい。

むしろ、メンバーも仕事も、白人よりも圧倒的に黒人の多い世界で日々活動する際に生じる様々なストレスの累積が、エヴァンスの在団期間の短さの真の原因だったのではないだろうか。

日々演奏するクラブでの黒人客やクラブオーナーからの目線。

レッド・ガーランド在団時は「黄金のクインテット」と賞賛されていたグループのピアニストであることへのプレッシャー。

その上、当事、エヴァンスの父は病気で療養中だったという。その父親の病気に対する懸念もあったことだろう。

このような様々な要因が重なった上での短い滞在日数だったのではないかと考えるほうが自然なのではないだろうか。

決してコルトレーンだけが「悪者」というわけではなかったのだはないかと私は考えている。

記:2015/06/05

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