ジャズの聴き方は、いろいろあるのさ(アタリマエ)

      2017/05/21

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聴き方に法則はないけれど……

寺島靖国氏の著書に、『JAZZの聴き方に法則はない』というタイトルの本があるが、まったくその通りだと思う。

ジャズの聴き方に法則はないと思う。
ていうか、法則なんてあってたまるかっての。

もっとも、入門者にとっては、ジャズってやつは、懐深そうな未知なる世界に見えるからか、識者などに「こう聴け!」と断言されたい気持ちがあるのかもしれない。

実際、私もそうだったから。

むしろ、「好きに聴いていいんだよ」と言われてしまうと、「そんなこと言われたって……」状態になってしまう人もいるかもしれない。

それよりかは、「こういうふうに聴け!」 と断言、命令されたほうが、「ははぁ、さようですか、ではそうさせていただきます」と素直に受け入れられそう(笑)。



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「有り難い」聴き方提言

そこで、重宝されるのが「とにかく大音量で聴け」「ながら聴きはアカン!」などという評論家からの提言。

ジャズ=難解そう、
ジャズ=未知なる世界、
という、ジャズに対しての憧憬を抱く者にとっては、「なるほどねぇ。やっぱりジャズって今まで自分が親しんできた音楽とは一味違うんだぁ」と納得する。

この“一味違う”っぷりが逆に嬉しかったりするし、それに憧れてジャズの門戸を叩く人だっているのだろうから(私がそうだった)、右も左も分からない人にとって、“聴き方指南”というのは、ありがたいことなのかもしれない。

また、多くの初心者は心の中で勝手に未知なる音楽として敷居を高くしている可能性もあるから、敷居の高そうな言辞は心地よく響くのかもしれない。
「100枚聴くまで好き嫌い言うな」とか「サキコロ100回聴き潰して来い!」とかね(笑)。

▼サキコロ♪
サキソフォン・コロッサスサキソフォン・コロッサス/ソニー・ロリンズ

それは、老舗かつ有名な蕎麦屋(あるいは寿司屋でもいい)のガンコ親父の「蕎麦ってのは、こうして喰うもんだ」という説教を有り難がる心理に似ていなくもない。

「ながら聴きなどせずに、ちゃんと真剣に音と向かい合いなさい」
「そうしないと、ジャズのおいしいところを聴き漏らしますよ」

という提言も、そのひとつ。

ま、言ってる内容は至極真っ当でアタリマエのことではあるけれども、たとえばジャズ喫茶のマスターや、評論家のような「いかにもジャズの権威」的存在の人が言うと、なんだか妙な説得力が生まれることは確かだ。

もちろん、私もキチンと真剣に音と向かい合ってジャズを鑑賞することが多いですし、この「ちゃんと聴き」が鑑賞態度の基本ではあります(じゃないと、本や雑誌の原稿書けませんって…)。

切り口が見つからなかったり、筆が進まないときは、耳から血が出るほど何度も何度も真剣に集中して聴いてます。

あ、耳から血というのは冗談だけれども、私の性能の悪い脳味噌が悲鳴をあげるぐらい集中して聴くこともあります。

キチンと音と向かいあうことは勿論大切な鑑賞態度の一つだ。
しかし、ジャズの聴き方は、決してそれだけではないとも言っておきたいのです。

楽しみ方いろいろ

私は原稿書くときやネットサーフィンしているときのBGMでも聴くし、通勤中にも聴くし、読書中にも聴くし、飲み屋でもカバンの中のCDをかけさせるし(ワガママな客だ)、ラブホテルでも有線は必ずモダンジャズにしているので、つまり行為の真っ最中にも聴く(笑)。

ホテルのバスルームにも有線がつながる場合は、シャワーを浴びながら、ついでにジャズ浴びているという寸法。

私がよく行くジャズ喫茶は四谷の「いーぐる」なんだけど、いつもそこで何をしているかというと、ノートPCで原稿を書くか、雑誌や新聞を読むか、寝るかのどれか(笑)。

大音量でジャズが流れ、私語が禁止の時間帯でも、私はそうしてます。

で、マスターからはとくに私の鑑賞態度に関してなにか言われたこともないし (ジャズ喫茶未体験の方、ジャズ喫茶は怖くないのですヨ)、私は私なりにジャズを浴びながら(鑑賞ではなく)、他のことをしている。

しかし、他のことをしていても、やっぱりハッとなるフレーズや瞬間というのもあるわけで、そういうときは、キーを打つ手を止めて、音に聴き入ってしまう。

というより、他のことに熱中しているオレ様の手を止めさせるほど「音の力」を有した演奏が、オレにとっては良いジャズなのだ、という傲慢なバロメーターすら持っている(笑)。

とにかく聴く態度やシチュエーションを1つに限定せずに、ジャズを日常的に浴びる、これが私のジャズの鑑賞法。法則も聴き方もあったものじゃない(第一、聴き方なんてもの人に教えるものでも、教わるものでもないでしょう)。

多種多様な楽しみ方が出来る音楽、ジャズ。
こちらの様々な楽しみ方に応えてくれる(可能性の高い)音楽、ジャズ。

だから、ジャズってイイわけじゃないですか。

日常的なBGMとしてもキチンと機能するし(居酒屋のBGMでもジャズ多いよね)、通勤中にやる気を奮い起こさせるカンフル剤にもなることもある。

もちろん、キチンと真剣に聴き込めば、こちらの真剣さに応えてくれるだけの優れた演奏も多い。
また、優れた演奏は、聴けば聴くほど聴こえ方が変わったり、新たな発見もある。すなわち飽きない。

このようにリスナーの多用なニーズとワガママに応えてくれる懐の深い音楽だからこそ、飽きっぽい私が、いまだに飽きずにジャズを聴き続けているわけです。

もちろん、真剣に聴かなきゃ分からないこと、見えてこないこともある。
また、真剣に聴かないと、なかなか良さが分かりづらい面があるのもジャズの特徴の一つかもしれない。

でも、いいじゃない。見えてこなくたって。
見えたところでどうする?
見えないことでなにかある?

人が受け取る情報量なんて、感性や経験値によって個人差ありまくりだし、演奏の細かなディティールが分かったところで、聴いている本人はそりゃ嬉しいけれども、それがどうしたの?な世界でもある。

べつに、いつもジャズをかけるたびに、「聴くからには感動しなければ」とか、「聴くからには、なにかを感じとらねば」などと力む必要はないんじゃないの?

そういう考え方って「貧乏性」っていうのよ(笑)。

せっかく心を豊にするために、ジャズを聴いているはずが、自分の努力に見返りを要求するような鑑賞態度は、ケチケチとした心の貧しさを育むだけ。つまり、豊かさとは逆のベクトルを向いているわけ。

無理して元をとろうと鼻息荒くしても、音はこちらに微笑んでくれるとは限らないってばさ。
音楽鑑賞はビジネスでも投資でもないんだよ。

その「元を取る」って発想自体、キャバクラ嬢やホステスに迫るオヤジみたいだよね(笑)。あなたにこれだけお金使ってるのに、どうしてやらせてくれないの?って(笑)。

あるいは、女フラれた男が女に「今までオマエに貢いだ分の金返せっ!」と叫ぶみっともない姿(笑)。

だから、がちがちにハングリーにならずに、自然体でいいんじゃないの?

それはキチンと正座して聴いても、ながら聴きでも、ハッとするときは、ハッとしてグーだし(古)、ハッとしないときは、どんな鑑賞態度でもハッとしないものなのよ。

「気付き」や「理解」にはタイミングの問題もあるし、受け手の気分や体調といったコンディションの問題も多分にあったりする。これは男女の出会いにも似ているかもしれない。

それにCDやレコードを聴くのって、一期一会じゃないんだからさ、一回聴いてピンと来なくても、何度も聴き返せる。なにがなんでも、今鳴っている演奏の中から何かを掴んでやるというハングリー精神も美しいかもしれないが、こちらの気合いが、即、報われるものでもない。

ジャズの良さって、大袈裟に言うと「悟り」みたいなものでさ、ある日突然、予期せぬタイミングで、ふと「あれ?これイイなぁ」と気付くことのほうが圧倒的に多くありませんか? 少なくとも私はそうだ。

逆に、「何かを掴むぞぉ!」と、“修行するぞぉ、修行するぞぉ”モードでスピーカーに挑みかからんばかりの気迫で対峙したとしても、そこから感動を得られる保障は無い。

せっかく真剣に向かい合っても、感動も感銘も気付きも得られなかった場合って、かなり報われないよね。

「俺がこんなに真剣なのに、ジャズよ、どーして、こっちの気持ちに応えてくれないの?」となってしまうかもしれない。

「俺がそうなのに、相手はそうじゃない」

それってかなりストーカーのメンタリティに近いものがある(怖)。

頑張って、気合いを入れて理解しようという姿勢は、たしかにジャズを聴き始めの時期には必要かもしれないし、もちろん否定はしない。

しかし、理解、気付きというものは、むしろ歩いているときとか、風呂に入っているときとか、対象から遠ざかっているときに「降ってくる」ことだってあるわけで。いや、むしろ私の場合は、そのほうが多いかな。

それに、私の場合はビリー・ホリデイだったが、彼女の歌のように、ある年齢や、経験を重ねないとスッと心に染みて来ない音楽だってある。
50過ぎてベニー・カーターの味わいを始めて分かった気がすると仰る方もいる。

このように、たとえば28歳のジャズファンがいたとして、彼が、ジャズを真剣に聴きさえすれば、すべてが理解できると考えるほうがおかしい。

むしろ、「真剣に聴かねばならない」というテーゼは、「真剣に聴けばなんでも分かるんだ」という短絡的な思考回路が生まれる可能性すらある。 もちろん、これは先述したとおり、あなたの頑張りとジャズの表現内容の理解は比例するものではない。

女性を頑張って口説いたからって、必ず落ちるとは限らないでしょ? それと同じだ。
頑張ればなんとかなる、押せば落ちるという発想はモテない男の悲しい根性論だ。

だから、私の場合はスピーカーと向き合っているときも、無理して理解しようという姿勢はなるべく避けているんだ。もっと肩の力を抜いて、聴く、というより、浴びるようにしている。

理解という言葉が出たついでに、もっと言わせてもらえれば、ジャズを「理解った」「理解した」という言葉そのものがクセモノなところも無きにしもあらずで、マニア同士の論争の多くが「お前は分かっていない」「お前こそ分かっていないくせに」だったりする。(くだらねー)

自分の感覚体験を、同好の志と共有することは楽しいことだけれども(だから私はそういう仲間を探したいから、メルマガを発行しているし、定期的にイベントも催している)、計測も数値化も出来ず、勝ち負けも判定できないところで争ったり競ったりするのってツマラない。だったらスポーツや格闘技やってるほうが健全だ。

もっとも、中には議論のための議論も好きな人もいるので、ま、それもジャズの楽しみ方の一つなのかな?とも思ってはいるけどね。

ジャズに対して必要以上にハングリーになる必要はさらさらないと思う。

仲の良い恋人同士、あるいは夫婦のように、長い時間をかけて少しずつジャズと仲良くなってゆくのが、ジャズを長く楽しむコツだと私は思うのだが、みなさんはどうでしょ?

海外で聴くジャズも良い

ところで、私は明日、ハワイへ行く。
当然iPodを持参する。
iPodの中には、ドド・マーマローサの『ドドズ・バック!』がはいっている。

ドドズ・バックドドズ・バック/ドド・マーマローサ

『ドドズ・バック』は、大好きなアルバム。
と同時に、最近では、異国の地で必ず聴く自分の中での定番アルバムとなっている。

ニースの海岸で海岸に転がる大きな石の上をヨタヨタと歩き、真っ青で穏やかな地中海を見ながら聴く《グリーン・ドルフィン・ストリート》は、南仏の快適な空気の中に滑らかに溶け込んだ。

モナコの小高い丘を涼しげな風を受けながら聴いた《コテッジ・フォー・セール》は、明るい陽射しとは裏腹に、ちょっぴりと感傷的な気分が沸き起こった。

ブリュッセルの早朝、『ドドズ・バック』を聴きながら、夜明けの町を歩いたこともある。

街が静かに動き始める時間とシンクロして《ミー・アンド・マイ・シャドウ》が流れ始めた瞬間に感じた早朝のベルギーの爽やかな空気といったら。

そのときの静かに高揚した気分は、この曲を聴くたびに解凍され、目の前に蘇る。

サンノゼからサンフランシスコの空港までリムジンに乗り、シンガポールからやってきた雑誌編集者の若い女の子(滅茶苦茶可愛い!)とシャンパンで乾杯をしながら車内に流れていた《エヴリシング・ハップンズ・トゥ・ミー》に「出来すぎだぜ、こりゃ」と苦笑したり。

バンコクの雑踏を歩きながら聴いた《ユー・コール・イット・マッドネス》からは、不思議な郷愁を呼び起こされた。

また、奄美大島の早朝に《メロウ・ムード》を聴きながら港に向かうと、むせ返るほどの濃密な潮の空気と明るさの中に秘められた一抹のセンチメンタルさに一瞬涙が出そうにもなった。

まだまだ、様々な場所やシチュエーションで『ドドズ・バック』を私は聴いているが(大阪の千日前でたこやきを食べながらとか、札幌のすすきのでラーメンを食べながらとか)、聴くたびに異国の地の風景が物語として私に語りかけてくるし、聴きなれて耳タコなはずの音も新鮮な響きとして耳の中にするすると染み込んでくるのだ。

ジャズを聴き始めたころの私は、ジャズを必要以上に高尚なものだと思いたがっていたし、ケツも青かったから、音楽を感傷的な記憶再生装置、あるいは記憶封印装置として利用するのは邪道だとイキガッていたものだ。

しかし、最近の私はケツもそろそろ青くないので(笑)、こういう聴き方もイイじゃないの、だって聴き方なんて人それぞれなんだから、と思うようになってきている。

旅とともにジャズ。

旅の風景のBGMとしてのジャズ。
これもまた、ジャズを愉しむ楽しい選択肢の中の一つなのだ。
私にとってはね。

さて、ワイキキのビーチで聴く『ドドズ・バック!』は、どのような表情を見せるだろうか?

記:2006/06/22

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