カフェモンマルトル

text:高野雲

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寺島靖国さんがジャズに求める「色気」〜PCMジャス喫茶を聞いて

      2017/08/06

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PCM放送の寺島靖国氏の番組

先日、はじめてPCM放送の「ミュージックバード」の「THE JAZZ」を聴いてみた。

Music Bird

PCM放送とは、24時間、まるで有線のように、ジャズが流れ続けている放送なのだが、ときにはトーク番組もあって、たとえば故・油井正一氏の『アスペクト・イン・ジャズ』の再放送があったり、「メグ」のマスターの寺島靖国さんがホストとなって、ゲストとともにトークを繰り広げながらジャズを流すという番組もある。

先日私がチェックしてみたのは、その寺島さんの番組(笑)。

「PCMジャズ喫茶」というタイトルで、毎週火曜日の22:00~23:00に毎週放送されている。



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ゲスト:人妻Aさん

パーソナリティとして、評論家の岩浪洋三氏、前日本オーディオ協会事務局長の長澤祥氏も参加しており、さらに先日は「人妻A」さんという、なにやらアダルトな芸名の女性も参加していた。

私は、寺島さんの本は、ほぼすべて読んでいる。

しかし、寺島さんって、文章は面白いものの、私は書いてある内容に関しては「?」を頭の上に常に3個から10個ぐらい浮かべながら読む読者なので(それが寺島本を読む愉しみの一つでもあるのだが)、今度はどんな「迷言」をのたまうのかな、なんて構えながら聞いていたのだが、意外や意外、結構まっとうな発言をされているではないか!(失礼!・笑)

たとえば、名前忘れたけど、人妻Aさんがお勧めの最近のジャズマンが演奏したコルトレーンの《モーメンツ・ノーティス》をピアノトリオで演奏された音源に関しての感想は、まったく私と同じ。

もっと曲をいじくらないで、ストレートにやればいいのに。

ま、これはこの曲を知っている人からしてみればまっとうな反応かもしれない。

非常にギミックが多く、《モーメンツ・ノーティス》のための《モーメンツ・ノーティス》として演奏しているのではなく、ギミックとテクニックのための《モーメンツ・ノーティス》として演奏されていたからだ。

曲のパーツをいったんバラバラに分解し、それを違う形に組み替えるという、まるでバンダイのガンプラと、ケロロ軍曹のプラモデルの手足頭を組みかえたような演奏は、1度聴けば面白いかもしれないが、構造、構成が分かってしまえば、もういいや、な感じの演奏なのだ。

「音楽」を聴かされるというよりは、「切り口」を聴かされるって感じなんだよね、この手の演奏は。最近のヨーロッパものに多いような気がするけど、ストレートに堂々とやっても本場にはかなわないから策を弄するっていう発想なのかしら?

ジャズに求める色気

あと、岩浪洋三氏の「ジャズには色気を求めないが、そのかわりポルノを見ている」なんて話は、ジャズ喫茶のカウンター上でのジャズマニアのおじさん同士の会話のようなプライベート感は濃密にあるものの、寺島本にもよく出てくる「色気」な話はもうたくさん!って感じではある。

ま、寺島さんにとっては色気は重要なキーワードのようだから、会話や文章の切り口としては外せない要素なんだろうけど。

もっとも私、もジャズに色気は求めているけれども、寺島さんの求める色気とはちょっと違う気がする。

私の求める色気は音の色気で、それは音色だったり、フレーズのアーティキュレーションだったり、発音のタイミングや音の減衰っぷりだったりする。

でも、寺島さんの求める色気って、もちろん音色の色気もあるのかもしれないが、どうも「人の色気」、「風情としての色気」のほうが強いんじゃないかと。

ジャケットに映る金髪女性の色香だったり、愛らしいメロディから連想される色っぽい情景(金髪女性がスイートルームでしどけなくガウンがはだけて……みたいな)だったりと、どうも聴覚よりも視覚の色気、つまり自分のイメージ(妄想)の中でビジュアライズ出来る色気を求めているように感じるのは私だけ? 

それとも単にそれは寺島さんの表現が、私にそう感じさせるだけなのだろうか?

だとしたら、ちょっと大袈裟だが、私の感受性は音楽者としてのそれだとすると、寺島さんの場合は文学者としての感受性なのかもしれない。

なるほど、だから文章が面白いわけだ。

私が感じる寺島さんの文章の面白さは、「ジャズ評論家」としてのものではなく、どちらかというと「エッセイスト」としての面白さだと感じ続けていたので、なるほど、「色気」ひとつとって考えてみても、ジャズの音が耳をスルーして脳内で処理される過程の違いが垣間見えるようで面白い。

そして、頭の中で音情報が処理され、最終的に言葉や文字としてアウトプットされる回路と行程がまったく違う者同士というのは、どうしても話が噛み合わないというのも、なんとなく納得できる話ではある。

いい例が、四谷「いーぐる」の後藤さんと、吉祥寺「メグ」の寺島さんのお二人(笑)。

つまり、「四谷派」と「吉祥寺派」とでは、そもそもからにして、音情報の受容回路の構造が異なるがゆえ、嗜好する音の傾向もまったくもって違うのではないのかと。

それは旧日本軍の海軍と陸軍の違いのようなもので(笑)、この狭くて資源の少ない国の軍隊において、武器のパーツの規格はまったくもって両者は違っており互換性がなかったのだという。

海軍のネジの頭の溝がマイナスならば、陸軍のネジはプラスだったそうだ(あれ、逆だったっけ?)。

海軍の戦闘機は、お尻の部分から着陸(着艦)すれば、陸軍の戦闘機は翼端の脚とお尻の車輪を同時に着地させるなど、あの物資大国のアメリカさえ、パーツは陸・海・空と軍をまたいで互換性があったにもかかわらず、日本は陸軍と海軍では武器を構成する部品や構造からにしてまったくもって違っていた。

セラピスト、催眠療法家の石井裕之唱える「シン・スライシング」の発想ではないが、ディティールがマクロを形成し大きな部分にまで影響を及ぼすように、たった一つのネジの違いからも両者の戦略や発想は大きく異なる(実際、マハン理論とハウスフォッファー理論の対立という、1つの国家の軍隊ながらも、その戦略の基となる発想は大きく異なっていた)。

よって、耳の中で震えた鼓膜の振動を受容・解析する脳の構造が違えば、その言動、表現内容は、ものすごく大きく異なり、そこに集まる人の気質や嗜好も同傾向、そしてそこで形作られる派閥のようなものが醸成する空気もまったく違うものになるのだな、などと、どうでもいいことを考えながら、「PCMジャズ喫茶」を聴いておりました(笑)。

あ、上に書いたことは、すべてテキトーなので、軽く流しちゃってください(笑)。

ジャズ喫茶にいる感覚で聞ける

一つの音や語りに触発されて、じーっとテーブルに座ってコーヒーを飲みながら妄想を飛躍させ、仕事や実生活にはまったく役に立たないどうでもいいことを考え、ニヤけ、ひとり愉悦にひたるのも、ジャズ喫茶という空間の中にいる者に許された特権だ。

ということは、番組を聴きながら、どうでもいいことを、連想し、考えさせるこの番組が醸し出す空気は、正しく「ジャズ喫茶」そのものなのであろう。

「PCMジャズ喫茶」という番組名の「ジャズ喫茶」の看板に偽りなし!な番組ではあった。

記:2008/03/20

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