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ジャズと映画と本の日々:高野雲

ジャズ。楽器をやる人、やらぬ人

      2018/01/11

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trumpetter

楽器をやらない派のジャズ喫茶のマスターがいる。

彼はジャズの雑誌に原稿を書いたり、本も何冊か出しているので、ジャズが好きな人は知っている人も多いんじゃないかと思う。

彼が最初に書いた本の中に、“アマチュア・ジャズメンが陥る落とし穴”についての指摘がある。

誤読されがちだが、必ずしも楽器をやっている人を糾弾する趣旨ではない。

大きな流れとしては、

ジャズとはどういう音楽なのか
ジャズとはかくも難しきかな
ジャズの名を語ったニセモノ音楽が多い

といったことを言わんとした内容で、各論として以下のような論の展開がある。

演奏を理論的に解析して、「誰々風」に演奏しても、それはジャズにはなりませんよ。

譜面通りに演奏したとしても、それはジャズではありませんよ。

なぜならジャズは生々しい身体的運動なのだから。

これらのことは、人前でジャズの演奏を出来るぐらいのレベルの人にとっては、アタリマエ以前の前提だし、至極当然の認識だ(と思う)。

しかし、上記の記述は、楽器をやらぬ人にとっては、ある種の福音にもなっているようだ。

楽器をやることによって陥りがちな“勘違い”の指摘のところが、やらない人や、そこそこかじった末に挫折した人にとっては嬉しいらしい。

時に、「ほれみろ、楽器できなくたって、ジャズは分かるのさ。楽器やってるからってデカい顔するな」とばかりに、錦の御旗のごとく引用されることすらある。

でもさ、「楽器やってるから云々、楽器やってないから云々」と言うような人に言いたい。

楽器やってようが、やってまいが、そんなのどっちでもイイじゃないですか。なんでそんなにこだわるわけ?と。

そういう人って、「俺はちゃんとジャズを“理解”しているんだ」という精神的な確証を得たくて仕方がないのかしら?

あ、それはあるかもしれない。

ジャズマニアって「分かっている」とか「分かってない」といった言葉を連発するからね(私は恥ずかしいからしないけど)。

どうも、ジャズマニアにとって「分かってない」というのは恥ずべき状態で、「分かっている」という状態がステイタスなようだ。

だから、「分かっている」ということをアピールするために躍起になる傾向がある。

楽器をやらぬ人から見れば、やっている人のほうが「分かっている」ように映ってしまうのだろうか? なにより“楽器をやっていると”ことが、“分かってなければ出来ない→だから、分かっている”ということを雄弁に物語っているように見えてしまうからね。

もちろん、それはとんだ誤解なのだが、やらぬ人としても、なんとかして“俺は分かっている”という確証が欲しい。そんな中で、楽器奏者に手厳しい論考に出くわすと「それみたことか」となってしまうのかもしれない。

関心無い人にとってはどうでも良いことなんだけども、ジャズマニア同士の間ではそうは問屋が卸さないこと、らしい。ジャズ喫茶にタムロしている人や、ジャズ関係のサイトのいくつかを覗いて感じた限りでは、そう感じられる。

しかし、思うんだけど、私は、音楽の感動・不感動や、音楽の理解・不理解は、楽器をやっていようがやっていまいが関係のないことだと思っている。

だって、名プロデューサーの誰もが楽器をやっているとは限らないじゃないですか。

一例を挙げると、かのブルーノートのオーナー、アルフレッド・ライオンは楽器奏者ではなかった。

しかし、純粋なるファンの視点で良質な作品を世の中に次々と送り出してくれた。

その反対がテオ・マセロ。

彼はサックス奏者だった。

彼はCBS移籍後のマイルス・デイヴィスにとっては無くてはならない存在だった。彼の大胆な編集的視点と手腕がなければ、当時のマイルスの作品は随分と中身の薄いものになっていただろう。

そのことは、彼の鋏が加わっていない当時のマイルスの音源を聴けば容易に想像できる。

テオ・マセロと、アルフレッド・ライオン。

楽器奏者と、非楽器奏者。

この2人の違いは、ありや、なしや?

分からない。

というより、分かろうはずもない。

しかし、1つだけ分かることがある。

彼ら2人は、ともに“良い仕事”をしたということ。

多くの素晴らしい作品を世に送り出したという2人の実績を前に“楽器をやっている・やっていないからどうのこうの”なんて言説は、いかに些末で、どーでも良いかということが分かろうものだ。

大事なのは、楽器のやっている・やっていないではないハズ。

感受性や耳が鋭いか鈍いかだけの違いだけじゃないですか。

「楽器」なんて道具を持ち出さずとも、いっそのこと暴論的に「バカにはジャズが分かるめぇ」と言い放ったほうが、まだしもスッキリするってもんだ。

大雑把な結論だが、楽器をやる人とやらぬ人では、最初から気質的な違いもあるのかもしれない(“体質”じゃないよ)。

失敗したら恥ずかしいとか、ここで間違えたらどうしようとか、楽器を始めたことによって今まで聴いてきたジャズが違うように聴こえたらどうしようなどと、ヘンに未来のことを心配するようなタイプの人にはジャズの演奏は向いていないのかもしれない。

また、「男なら~べきだ」とか「やるからには天下を取る」といった、気負いのデカイ“からには~べき”さんにも不向きかもしれない。

一人で勝手に大きなプレッシャーを作り出してしまうと、そのプレッシャーに潰されてしまうのがオチだ。

別に、楽器を手にした誰もがプロになる必要も、人前で演奏する必要もないわけだし、誰もそこまで期待してないってばさ。

ノンシャランな精神、出たとこマカセな、ある種いい加減な精神や遊び心と余裕、時にはその場しのぎの“やっつけ仕事”。

すべてのジャズがそうだとは言わない。

しかし、この“難しいこた考えずにとにかくヤッちまえ”的な勢いは、ことジャズという音楽の演奏においては大事な要素ではないか。

出した音は次から次へポンポンと空気の中に消えていってしまうんだ。

いちいち“細かいことを気にしすぎない”で次から次へと音を中空に放り投げられるだけの、精神的なバイタリティと勢いを持ち合わせる人こそ楽器演奏に向いているタイプだと思う。

それに、楽器をやる人は、いちいち小難しいことを考えずに音を出していると思う。

だって、自分で自分の音を出すこと自体が快楽なのだから。

人と音を合わせれば快楽倍増。さらにうまくいったときの感覚と喜びは経験した人にしか分からない類のものだ。

たとえ、聴いている人にとっては大したことのない演奏だとしても。

サックス吹きながら、“現在の低迷しているジャズシーンの中における俺のプレイは…”などと考えている人間はいない。いたとしても、そんなヤツの音は“粋”ではない。

そして、“粋さ”を欠いたジャズほどつまらないものは無い。

部屋でレコードを聴く、ライブでミュージシャンの生演奏に接する。

これだって、立派なジャズの愉しみ方の選択肢だ。そちらのほうを大手をふってまっとうすれば、別段楽器をやっているジャズファンに対して気後れすることは何もない。

セックスもマッサージも気持ちの良いものだが、気持ちよさの質は異なるし、体力の消耗度も異なる。

それと同様に、ジャズを聴く快感とジャズを演奏する快感も異なるのだ。両方好きな人は両方やればいいし、片方でいいやという人は片方だけを選択すれば良いだけの話。

なにも両方楽しんでいる人をやっかむ必要はないし、片方しか楽しんでいない人を同情する筋合いもない。

要は、自分に合ったジャズの接し方をしていれば良いのだ。

隣の芝は思っているほど青くはないものだ。

記:2003/04/20

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