《長く短い祭》は、林檎ちゃん最強曲なのだ!

      2017/05/25

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長く短い祭/神様、仏様(初回完全限定生産)長く短い祭/神様、仏様

7月の前半から中旬頃かな?

うちの息子が、コカコーラのCMで流れている林檎ちゃんの曲カッケ~といいながら、YouTubeで探していたことを思い出します。

私がこのナンバー《長く短い祭》を通しで聴いたのは、シングルが発売される前後の7月の末頃。

これ、多分、息子が見つけたYouTubeの動画とともに聴いたんだけど、もう最初の数秒で、「カッケー!」と虜になってしまいました。

そう、それも最初の数秒で。

まだ、浮雲の♪忘るまじ~ が出現する前のところ。

ヴォコーダーを通した林檎ちゃんの声と、その背後で細かくモゾモゾとヴォーカルに絡むかのように淫靡に蠢くエレピの音を聴いただけで、ものの1秒もしない間に、こりゃすげぇ~!と引き込まれてしまったものです。

すっげぇ声と音に「磁力」を帯びた曲だなって思いました。

そして、曲を最後まで聴いて、思ったこと。

本当、椎名林檎の才能は枯渇するどころか、油田のごとく沸きまくっているな~、ということ。

デビュー当時のテイスト、つまりキャッチーで魅力的なメロディを紡ぎだすセンスは、そのままで(あと、後半のサビで転調して半音か全音上がるところなども)、彼女が持つ資質の良い部分は、まったく変化していない、というか、良い部分はそのまま残しつつ、さらに一段と楽曲の強度が増している。

坂本龍一がデビューアルバムのライナーで語っていた「毒」のニュアンスに近い要素が、新曲を発表するごとに、微量に増強され、その甘美な「毒」の含有量が少しずつ増量を繰り返して、中毒を引き起こすまでの臨界点に近い量まで、ついに達したのが、今回の新曲《長く短い祭り》なのでしょう。

だから、このナンバーは、数ある林檎名曲の中でも最強曲なのである!と断言しても良いのではないでしょうか。

だいたい私が好きな林檎ナンバーベストスリーは、《すべりだい》と《丸の内サディスティック》の2曲は不動で、季節やその時の気分によって《愛妻家の食卓》になったり、《密偵物語》になったり、《意識》だったり、《メロウ》だったり《浴室》だったりとクルクル変わるんですが、《長く短い祭》が登場したことによって、ベスト3の三曲は、しばらくは不動のものとなりそうです。

ヴォコーダーを通して、まるでパフュームみたいだと揶揄する声も無きにしも非ずのようですが、この声を変調させる意図は、おそらくパフュームとは正反対の意図なのでしょう。

むしろ、林檎ちゃんはヴォコーダーを通すことによって、より一層、生々しさを増強させることに成功している。

それどころか、この生々しさは、歌詞の中の言葉までにシンクロし、より一層、言葉のなまめかしさを立体感をもって浮き彫りにさせているところが、ものすごく見事だと思うわけなのです。

音楽に機械を使うと人間味が薄れる、非人間的だなんてことを言うアホバカマヌケデブハゲな人は、21世紀になって、はや十数年が過ぎた現在においては、もはや絶滅危惧種になっているはずだと思うんだけど、要はテクノロジーを生かすも殺すも、使う人のセンス次第なんだということです。

使ってるからダメ、使ってないからイイという判断はナンセンスです。

たしかにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場した70年代後半から、80年代前半にかけては、コンピューターを音楽に使っているから非人間的だという人が大勢いたのはわかるし、しょーがないと思う。

時代が時代だったし、生まれてこのかた人力オンリーの音楽しか聴いていた人が大多数を占めていましたからね。

だから、そういう人が、いきなり打ち込みの音楽やシンセサイザーを多用した音楽を聴いたときは、菱垣廻船や樽廻船しかしらない江戸時代の人々が、ペリー率いる黒船の船団を見たときの驚きに近いものがあったのでしょう。

黒船に目を輝かせ、吉田松陰のように密航までしようとした人は、ごくごく稀だったように、当時のYMOを賛美する人って、私が通っていた小学校や中学校では私を除けばクラスに1人か2人だったもんね。

むしろ、残りの人たちは、攘夷を叫んで外国人を排撃しようとした幕末の大部分の人々よろしく、生演奏中心主義の音楽に比べるとイエロー・マジック・オーケストラなんて非人間的だ、みたいなことを言っていたことを私は忘れてないぞ~。

今でこそ、「YMOはスゴかった、進んでいた、時代を先取りしていた、当時の日本はテクノブームだった」ということになっているので、「私も好きだった」「自分も当時からファンだった」と名乗る人は大勢いますけど。

しかし、いくら多くの人が富士カセットの《テクノ・ポリス》のCMを興奮して見ていたのかもしれんけど、実際にYMOのレコードやカセットを買って、それらを擦り切れるほど聴き、さらには、YMOの大特集がなされていた旺文社の『高一時代 1981年6月号』を中学生のくせに買っては眺め、アルバム『BGM』の歌詞を知りたいがために写真集の『OMIYAGE』を買っては眺め、さらには毎月『サウンドール』を購入している人なんて、当時、東京の下町に住んでいた私の周りには3学級ある学年の中で2人しかいなかったからね(もちろん、その中の一人は私)。

さらに、『ビックリハウス』や『宝島』もチェックしている人間なんて、もう学年では皆無、私1人でした。

そんな肩身の狭い思いをリアルタイムで肌身に感じて経験してきた私からしてみると、なぜ、YMOが「再生」した1993年頃、「再結成か~、好きだったんだよね~」という人が、周囲から雨後のタケノコのようにウヨウヨとあふれ出したことが、本当、不思議でならなかったんですよ。

YMOが『BGM』や『テクノデリック』を出した1981年頃の私の周囲には、そういう人って、ほとんどいなくて、むしろ私は、当時タモリが『笑っていいとも!』で流行らせた「ネクラ」というレッテルを貼られているくらい、肩身の狭い思いをしていました。

だから、明るく爽やかな笑顔で「YMOっていいよね~、好きだったんだよね~」という人がワラワラ現れはじめると、「嘘こけ、お前ら、子どもの頃は、俺らみたいなYMO好きをネクラだ、暗いだ、変態だとコキおろしていたくせに!」と心の中で叫んだものです。

人間の脳は、過去の記憶を現在の気分とリンクさせ、都合よく作り変える仕組みになっているようですから仕方ないといえば仕方ないのかもしれませんが。

それはビートルズにもいえることで、いまやビートルズは音楽や歴史の教科書にまで載るほどの「偉人」に昇格していますが、昔は違っていた、らしい(私はまだ生まれてなかったので、あくまで聞いた話によると)。

ビートルズが日本に来日する前後の時代、つまり、1966年前後は、ビートルズの音楽は日本でなんていわれていたと思いますか?

「騒音」ですよ、「騒音」。

当時の日本の多くの人の耳には、ビートルズの音楽は「騒音」として響いていたようですね。

ビートルズが来日した頃、あるジャズ喫茶のマスターから聴いた話だと、その時代の日本でビートルズのことを理解できて、かつ好きだった人ってほとんどいなかったのだそうです。

そのマスターは、ビートルズの大ファンだったそうですが、その当時通っていた高校にはビートルズのファンなんて、クラスに1人か2人いれば良いほうだったそうです。

なんだ、私にとってのYMO体験と一緒じゃん、って思いましたね。

そのマスターも、自分がビートルズが好きだというと、多くの友人や教師から奇異な目で見られるほどで、学校内では圧倒的にマイノリティな存在だったそうです。

にもかかわらず、時を経るごとに、自分と同世代の人間が「ビートルズは昔から好きだった」「ビートルズはリアルタイムで追いかけていた」という人が増えていくことに、「嘘こけ、お前ら」という気分になっていたそうですね。

なんだ、これも私の体験と一緒じゃん(笑)。

そのマスターが通っていた高校にはビートルズ好きは10人前後しかおらず、しかも、その10人は秘密結社のごとく仲良しグループを結成して、皆でお金を集めて、来日公演のコンサートに当選した、たった一枚のチケットをグループの中でもっとも熱心なファンの女の子に託し、上京してもらったのだそうです。旅費やチケット代は、ビートルズ好きの少ない仲間たちが集めたなけなしのお金をかきあつめて渡したそうです。

泣ける話じゃないですか。

ま、それぐらい、新しい音楽というのは、黒船と同様、最初は驚きと反感を持って迎えられ、時間の流れとともに、やがて「当たり前のもの」に定着してゆくのでしょう。

現在、2015年。

YMOの坂本龍一ががボコーダーを通して「トキオ!」と言ってから、はや35年以上の歳月が経っているわけでして、この35年は当時の「奇異」が、「当たり前」に変貌するには十分な時間的経過だったはずです。

だから、先ほど、音楽に機械を使うと人間味が薄れる、非人間的だなんてことを言う人は「絶滅危惧種」だと書いたわけですよ。

でも、「なんで林檎ちゃん声を変えるわけ?」みたいな声も少数ながらも出ていることに対して、それも若い人から出ているのが不思議といえば不思議。

もしかしたら、その人たちの頭の中には確固として揺れ動くことのない「林檎ちゃん像」があって(「アイドルはウンコしない」に似た思い込み)、それが崩れたことに違和感を感じたのかもしれませんね。

もちろん、私の中にも林檎ちゃん像はあるのですが、それでも、今回のボコーダー使用に関しては、ものすごく大賛成です。

ボコーダー使用の意図は、テクノなどの音楽においては常套手段となっている非人間的な要素を演出しているのではなく、むしろ間逆で、人間的、いや、それ以上にエロティックさ、なまめかしさを増補するための強力な装置として用いられているんだと思います。

しかも、音楽的な相性もバッチリきまっている。

もはや、この三位一体感は「奇跡」としか言いようがないですね。

以前、ラジオ番組で、ボサノバの特集をしたときに、私はアナ・カランとガブリエラ・アンダースの音源を紹介したんですね。

おいしい水おいしい水/アナ・カラン

Wantingウォンティング/ガブリエラ・アンダース

いずれもドラムなどのバックトラックは「打ち込み」です。

ボサノバに打ち込み?

普通は、ヒューマンなサウンドとテイストが持ち味なボサノバにテクノロジーを導入だなんて、アンバランスなんじゃない?って思うかもしれませんが、結果は逆なんですよ。

むしろ、打ち込みサウンドによって、歌手の息遣い、ニュアンスが、かえった露(あらわ)になっている。

そして、ボサノバ特有の倦怠感が、より一層強調された結果になっている。

そういうことを知ってもらいたくて、セレクトしてみたんですけど、ヒマな人は、音源がYouTubeにアップされているんで、聴いてみてくださいね。

これ、おそらく足し算、引き算の問題なんだと思うんですけど、強調したいことを際立たせるためには、あれもこれもと、どれもすべてをゴージャスにする必要はなく、むしろ引き算をしたほうが良いんですね。

だから、あえてバックトラックは単調なほどのシンプルさにすることによって、彼女たちの声や、バックトラックの響きに耳をフォーカスさせるという意図だったのでしょう。

先ほど、ボコーダーによって歌詞の言葉も立体的になっていると書いたけれども、まさに言霊の域であります。

あの声で、♪一寸女盛りを如何しやう~と歌われるからこそ、艶かしさに拍車がかかるというもんです。

歌詞良し、メロディ良し、コーラス良し、アレンジ良し、演奏能力の高さとセンス良し、PVの映像も素晴らしい。

完璧です。

これ以上、何を求めようや。

だから「最強曲」。

もっとも、タイトルにも、いちおう「林檎ちゃん最強曲」と記したけれども、もちろん、このナンバーが林檎ちゃんのピークだとは思ってませんよ。

今後は、さらに《長く短い祭》を上回る素敵な曲を我々に提示してくれることを期待しています。

記:2015/08/31

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