カフェモンマルトル

text:高野雲

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旋律考

      2015/05/24

acoustic_guitar

「リズム考」の続編で、今度はメロディについてです。

>>リズム考

前回の「クセ論」の延長です。

まず仮説。
民俗の血やDNAレベルでの記憶されている太古からの旋律、そのようなものは存在しないのではないか?

演歌を聴いて日本人はやっぱ「コブシ」だねぇ、とか日本人の血が騒ぐねェとおっしゃる人がいる。我々は何とは無しにこの言葉を鵜のみにして、日本人という「形質」が演歌やマイナーな旋律を好むものと理解しがちだが、これも「黒人だからリズム感が良い」と言っているのと同じで、好みや特性は人種によって規定されるものでは無いと思う。

演歌を例に出したついでに、余談をもう少し。
演歌のコブシは日本独自のものではない。発祥は中近東らしい。
またエチオピアの民俗音楽の旋律は日本の演歌にとても似ている。
現に北島三郎はエチオピアで人気がある。(「コブシ」については別項の「こぶし考」を参照して下さいね。)

演歌は「日本人だから」歌えるものではないし、「日本人だけが」感動できるものでもない。民俗固有の特権的な身体的感受能力というものは無いのだ。あるものは、ただただ「幼少時から現在に至るまで何を聴いてきたか」という経験の堆積だけだと私は考える。

要は「クセ」の堆積が、その人の好み、嗜好を決定ずけるということ。
我々一般的な日本人が幼少の頃から幾度となく、
「じゃーいーけーんで、ほーい。」
「かーごーめー、かーごーめー、かーごのなーかのとーりーは…」
「●丸くーん、あーそーぼ!」
と、いかにも日本的な「哀れっぽい」旋律を唄って育つ一方、小学校では「起立・礼・着席」のピアノ奏でる典型的な西洋平均律の和音に合わせてカラダを動かし、TVから流れる西洋音階の旋律に親しむ。

学校の音楽の時間には「さくら」を唄ったり、運動会では「花笠音頭」を踊ったり、そば屋や正月のデパートで流れる「琴」や「三味線」の旋律も無意識に耳にしている。

ものすごく乱暴に言ってしまえば、我々は「西8:和2」の割合で旋律が身体に染み込んでいるのだろう。

ここで言う、西というのはドレミファソラシドの音階とそれに基づいて構成されるハーモニー、和というのはドレミファ…の12音階よりも少ない音数で構成されている旋律だ(俗に言う「ヨナ抜きフレーズ」など)。

好むメロディの好き嫌いは、自分自身の「感性」とやら以前に、「刷り込まれた」旋律との対照、比較作業の結果の占めるパーセンテージのほうが高いのではないか?

もちろん個人差はあるが。そして、琴線に引っかかるメロディとはすなわち自分の体内に「癖」として残っているメロディーに近いパターンだ。

よって世代間においての音楽の価値観のギャップというものは必ず、ある。

童謡と民謡しか唱ったり聴いたりしたことのない明治時代の人は滝廉太郎や山田耕作のメロディは自然にカラダに受け入れるだろうが、おそらくビートルズには抵抗を感じるだろう。それどころか昭和の初期生まれの人もダメな人はダメなのだろうね。

今の我々からすれば、素晴しい旋律の宝庫なビートルズの歌も、来日時には「騒音」と形容していた識者・評論家が多かったようだし。

「ハーモニー」も時代によって感じられ方が違う。

「7ht」コードといえば、ロックンロールやブルースのベースラインなどを思い浮かべていただければ何となく分かってもらえるかもしれないが、独特の少し「鼻につく」響きのコードだ。
モーツァルトの時代には7thの概念はなかったし、「間違った音使い」だった。

それどころか、現在の我々にとってはシットリと情緒たっぷりの響きに感じてしまう「メジャー7th」の響きですら、当時の人は「ハモっていない(不協和音)」と感じていたそうだ。

時代とともに音の価値観は変わる。

どの時代の音楽も、前の世代から受け継がれて来た手法をベースにしつつも、一部の先鋭的な表現者の手によって少しずつ新しい要素や冒険が付加される。当然これらの要素を受け入れることのできない保守的な人も多かったのだろうが、少しずつ伝播し、いつしか次世代の主流となる。

「あんなの音楽じゃないよ、騒音だよ。」

きっと、このフレーズはあらゆる時代のあらゆる世代の人によって、それこそ大昔から何千何万回も言われていたのだろうし、これから先の時代にも無限に繰り返されるのだろう。

例を2、3点ほど…

オーネット・コールマンの『サムシン・エルス!』は、発売当時('58年)は「世紀の問題作」として評論家やミュージシャンの間では賛否両論が真っ二つに分かれたそうだが今の耳には普通の、あるいはちょっと変わった4ビートジャズにしか聴こえない。

40年代当時はジャズの革新的なムーブメントの「ビ・バップ」も、当時のニューヨークでは過激で最先端な音楽だったらしいが、今や最もオーソドックスなモダンジャズの基本形となってしまったので、どこが前衛だったのか首を傾げてしまうほどだ。

私が初めて「グランド・マスター・フラッシュ」を聴いたときは、「歌わず、リズムに合わせて喋る」という表現方法に強烈なショックを受けたものだが、今や「ラップ」は音楽表現における多様な選択肢の中の一つでしかない。

などなど……。

日本的なメロディと全く隔離された地域で生まれ育った「日本人」の子供は、将来何らかの機会に演歌や民謡を聴いたとする。ひょっとしたらもの珍しさで好きになる可能性はあるかもしれないし、新鮮な感動を覚えるかもしれない。

しかし、演歌の旋律に「日本人の血が騒ぐ」というようなことは絶対にあり得ない。

そもそも「血」って何だ?

繰り返そう。問題なのは日本人という「形質」ではない。日本人特有の感受性能力でもないし、そもそもそんなものは無い。あるとしたら、同じ文化圏で同じ言語を話し、同じアイドルやヒーローを好きになり(文化を共有し)、同じような食生活を送っているコミュニティの体内に堆積した近似な経験値、そしてそれに反応しがちな、共有のコードなのだろう。

そして、当たり前だが流行を共有した世代間とのギャップというものは必ず存在するし、世代ごとにメロディの好みが違ってくるのもこれまた当然のことなのだ。

記:1999/11/16

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