カフェモンマルトル

text:高野雲

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「にわか知識」が音楽鑑賞を干渉する

      2017/05/22

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chikuonki

えーと、先日、渋谷とドビュッシーについて書いたところ、

>ドビュッシーの曲。時々和音の中にmaj7の音が混ざっているように聞こえることがます。これって、ジャズのハーモニーに近いのかな。

という書き込みをいただきました。

おそらくは、書かれた方は、なんとなく、漠然と感じた共通点を取りとめも無く書いただけなんでしょうけれども、

で、

このトリトメもない書き込みに熱くなる私のほうがアホだと思うんだけれども、それでも、私が日頃考えていることを思い出すキッカケともなる書き込みだったので、私の考えを忌憚無く書いちゃいます。

あ、べつに、この書き込みをされた方の考え方、感じ方にたいしてどうのこうのと思ってはいませんし、悪気はありません。

気を悪くしないでくださいね。

結論からいってしまうと、

この設問自体がナンセンスというか、問いの意味がよくわからない。

そもそも「ジャズの響き」っていう大雑把な括りが、いったいどの時代のどのジャズ、あるいは具体的に誰の演奏のどの部分の響きなのかが指定されていないので、検証しようがないし(ジェリー・ロール・モートンの時代から、セシル・テイラーのような前衛までもがジャズという言葉でくくられてますからね)、

maj7は確かにジャズの曲や演奏に使われる響きではあるけれども、ジャズだけに限定されるものでもなく、後述しますが、ロックやポップスでも当たり前のように使われているコードネーム、いや、ロックやポップスだって、昨今では7よりも上の9を重ねるコードも当たり前のように使われています。

だから、正解は、近いでもないし、遠いでもない。

設問そのものが意味をなしていない、といわざるをえないのです。

回答者が回答する上での前提、情報が与えられていない(少ない)うえに、質問者と回答者との間の共通認識、共有情報皆無に等しい。

ま、本人としては、ツブヤき程度に発した無邪気な疑問程度なのでしょうけれども、それを真剣に受け止めちゃうと、どう回答したらいいのか、なかなか困った事態に陥ってしまうのであります(だから、以前も似たような書き込みがあったけれども、時間がなかったから黙殺せざるをえなかった)。

言い方悪いけれども、「子供の質問に答えるほうが難しい」のと同じことなのかもしれない。

さて、ここから先は、普段私が漠然と感じていること、考えていることをつらつらと書いてゆくことにしましょう。

まず、コードネーム表記による、音楽の、雰囲気、佇まいの伝達に関しては、私はまったく信じていません。

それどころか、そもそも、「コードがナニナニだから、なになにっぽい」、「スケールがああだから、かれこれはらへりほれ」というような会話にウンザリなのです。

もちろん、演奏者同士における伝達は別ですよ。

バンドの練習のときにアレンジを考えるときなど、「サビのラストは、メジャーセブンにしてみようか」みたいなコミュニケーションは日常茶飯事だし、そういう面においては、非常に便利な「伝達手段」「共通言語」だと思っていますよ。

演奏者同士のコミュニケーションとしては非常に便利です。

だけども、リスナーとのコミュニケーションにおいては、果たして……?

個人が感じ取る音楽の情緒、佇まいをコードネーム、つまり記号表記で理解したり、コードネームという項目で共通項を括ることって、じつはそれほど良い聴き方だとは思えないのです。

もっと言っちゃうと、非常に浅薄。

浅い聴き方だと思います。

響きが似ているから、どうだっていうの?
です。

仮に似たことが分かったところで、それがどうしたの?
なのです。

書かれている「ジャズのハーモニー」とは、果たして、どの時代の誰のジャズをさしているのかは分からないのですが、ビ・バップ以降でしたら、7thより上の9、11、13thなどを重ねるのが当たり前ですし(もちろん△7もありますよ)、だからといって、9、11の響きが認められるからといって、J-POPの曲と、ビ・バップの響きは似ているとも思えないでしょ?

いや、興味のある人は、そのへんのヒミツを探ってもいいんだろうし、じつは、すごく意図的にジャズ的な和声を導入しているミュージシャンもいるんだろうけれども(すでにジャズ的和声の習得は、専門的なポピュラーミュージックの教育においては、必須課題かつ基礎知識の部類ですからね)、少なくとも、私にはあまり興味がない(笑)。

たとえば、私が椎名林檎に強烈にジャズを感じる場合があるのですが、それは、リズムでもハーモニーでもない、音そのものの力だったり勢いだったりするのです。

ちょっとした猥雑さだったり、ツメツメにキメ過ぎない、作りこみ過ぎない「遊び」があるところ、フェイクしたときの声のニュアンス……etc

べつに、コード進行がうんちゃらとか、ハーモニーがどうとか、4ビートの曲もやっているとか、そういった表層的な要素じゃないんです。

逆に表層的な要素、つまり、リズムが4ビートだからとか、ジャズ畑っぽいミュージシャンが参加しているから、スタンダード演っているからという理由で、私はPe'zとかケイコ・リーやマンハッタン・ジャズ・クインテットには、ジャズっぽさを感じません。

90年代のいわゆる、ニューミュージックという言葉が「ヂェイ・ぽっぷ」と言う呼び名になりはじめた以降の音楽上の大きな(?)変化の一つに、9thコードが多用されるようになったことがあるそうですが、だからといって、9thの含みを持たせてアドリブを取ったパーカーのフレーズをピックアップし、パーカーが吹いたこの箇所と、ジェイポップが似ている!という比較や指摘をしたところで、果たしてどれほどの意味があるでしょうか?

あるいは、飯島真理がセルフプロデュースした5枚目のアルバムに『コケティッシュ・ブルー』というのがあるのですが、ここに収録されている曲のほとんどは、メジャーセブンの嵐。

だからといって、同じくメジャーセブンスが混ざっているドビュッシーに近いのか?となると、私は全然近いとは思わない。

それ以前に、同じコードを使っているからといって、比較する意味がそもそも、ないですよね?

いや、この比較が面白い! 意味がある!という人もいるかもしれないけれども、少なくとも私には興味がない(笑)。

コードって、あくまで曲を形成する素材であり、技術であり、便利なツールなんですよ。

建物で言えば、建材。料理で言えば調味料。

使い方は人それぞれで、使う意図も人それぞれ、使う方法も音の重ね方も様々なので(音の重ね方や音色によっても同じコードでも万華鏡のように音が変わる)、演奏者によって音の情感はまったく違う。

あるいは、絵で喩えるとすると、「遠近法」という手法、考え方かもしれない。

ぺルジーノのフレスコ画『ペテロへの鍵の授与』は遠近法で有名な絵ですが、だからといって、鳥山明の『ドラゴンボール』にも遠近法が使われている、だから、『ドラゴンボール』はベルジーノなテイストなのかな? とはいわないでしょう?

この両者を同じ土俵、俎上にのせる意味って、あんまり、というかまったく無いよね。

もしかしたら美術専門学校などの授業ではアリかもしれないけれども、それは技法上の話だからであって、両者を結ぶ共通項は、「遠近法」ただそれだけの話。

昔、「マイナー考」というエッセイを書いたんだけれども、

>>マイナー考

そこでも主張しているように、我々が音から受ける雰囲気、気分を「メジャー」だの「マイナー」だのといった、あるいは、「セブンス」や「オルタード」といった送り手のテクニカルな要素と、送り手が何を表現したいのか(表現したのか)は、まったく別の話。

大切なのは、何を表現したいのか(何を表現したのか)、のほうであるはずで、それを我々はどう受け止めた(るの)か、のはず。

その受け止める内容が、「マイナーだよね」とか「ハーモニックマイナー使ってるよね」じゃ、あまりに浅くありませんか? ってことなんですよ。

別に知らなくても不自由しないニワカ知識を持ってしまったために、かえって大切な感受性にフィルターがかかってしまっているような気がしないでもない。

私、ここでは、あまり難しいことを言っているつもりじゃないんですが、それでも、ムズかしい話っぽくなってきたとしたら、もっと簡単に軌道修正しましょう。

たとえば、こういうことです。

料理を食って、「うまい!」と感じる感受性こそが大事なんだよ、ってこと。

料理食って、「塩味だよね」とか「ソース風味だよね」ってリアクションは、あまりにツマらなくありませんか?

ってことなんです。

料理を食って
「この塩味がたまらん!」
なら分かるけど、
「これは塩味だ」じゃ、
それはそうだけれども、それがどーしたの?な世界じゃありませんか。

ちなみに、「彼はあえてこの料理に塩味というアプローチをとったが、予想以上に良い効果をもたらしているようだ。香りを殺さず、むしろ素材が持つ深みを、このシンプルな手法で引き出した点は評価に値するし、なにより美味い!」が、批評です。

もちろん、プロの料理人には、素材や料理法、調理器具、調味料などの知識が不可欠なことと同様に、プロの楽器演奏者は譜面が読めなければ話にならないし、コードの知識も不可欠です。一部の天才や、一芸だけで食っている人は例外としてね。

しかし、必ずしも受け手は、このようなことを知る必要はないし、もちろん知っていても構わないんだけれども、素人のにわか仕込みの知識がかえって感性を曇らせ、感動する力を萎えさせる根源になっているんじゃないかと危惧するのであります。

それが証拠に、油井正一や後藤雅洋、中山康樹といった鋭い考察をするジャズ評論家って、楽器やりませんよ。楽理的な知識もありませんよ。

しかし、良いものを嗅ぎ取る感覚、それを的確に表現・伝達する能力は、当然ながら人並み以上にあります。

かえって、寺島靖国とか、高野雲のように(笑)ヘタの横好き楽器弾きのほうが、トンチンカンなこという可能性高いじゃないですか(笑)?

もっとも村井康司はギターを弾いて、論考も鋭いけれども、それはむしろ稀有な例かもしれない。

昔、どこかに書いた記憶があるんだけれども、『カインド・オブ・ブルー』はモード奏法を導入したから素晴らしいんじゃないんです。

モード奏法でマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスが素晴らしいプレイをしたから素晴らしいんです。

>>カインド・オブ・ブルー/マイルス・デイヴィス

これを分かるか、分からないかの差は大きいし、響きの共通項を見つけて喜んでいるようじゃ、まだまだ中学生か高校生レベルの鑑賞能力。

え? なぜかって?

それは、私も昔、中高生のときには、そのような鑑賞姿勢だったから(笑)。

当時の日記をひっぱりだすと、いろいろなミュージシャンの響きや音色の共通性を発見しては無邪気に喜んでいた。

それはそれで、楽しかったけれども、今考えると、無邪気で浅い聴き方だったよなぁ、と思うと同時に、そういう無邪気も時には悪くはないかな、と頭の片隅で思ってもみたり。

とまぁ、いろいろと、つらつらと書いてみました。

記:2007/06/15

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