リズム考

   

minzokugakki

ほんの数カ月の間だが、ヨガを習っていたことがある。
そのヨガ教室で先生が語った興味深い言葉。

「人間の身体は簡単にクセがついてしまいます。」

つまり、こういうことだ。

電車に乗って無意識に右に曲がるクセのある人は、たったそれだけのことで骨が少しずつ右側に曲がってしまう。

ラケットを左手で握る人は左側の筋肉が発達し、腕と肩の骨格がアンバランスになってしまう。実生活のほんの些細な事柄でも知らず知らずのうちに身体にクセがついてしまうことが多い。

だからヨガでクセをとりましょう、ということなのだが、私は「簡単にクセがついてしまう」という言葉が妙に印象に残った。

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はなし変わって、黒人はリズム感が良いとよく言われているが、果たして本当にそうなのだろうかというのが私の長年の疑問だった。

そもそもリズム感の善し悪しは、人種という大雑把な括りで規定されてしまうものなのだろうか。私はどうにも腑に落ちない。

そこで、大胆な仮説を立ててみる。
リズム感の善し悪しを左右するのは「言語」だ、と。

さきほど人間の身体は簡単にクセがついてしまうことを書いた。山奥の仙人や世捨て人は別として、多少なりとも社会との関わりを持って生活している人間が毎日必ずすること、それは「言葉を話す」ということだ。

のっぺりとした言語を毎日話していたら。
逆にリズミックな言語が母国語だったら。
その差は歴然なのではないのだろうか。

つまり話している言葉の抑揚がそのまま「クセ」として、その人の身体感覚となってしまうのではないのだろうか?

たとえばアフリカの言語はリズミックでアフタービートな言葉が多いという。ひと昔前にワールドミュージックのブームの折りに脚光を浴びたユッス・ンドゥールの名前からして、「ン」の音から始まる。つまりタメを置いてから音を発するわけだから、イヤが応にもアフタービートだ。

「ン」で始まる言語を多く持つ国民が、「ン」で始まる語を毎日何千語も話していれば「クセ」として身体感覚に堆積するのではないのだろうか。

昔、演劇の指導家が、黒人役の日本人の演技指導をした際、踵を浮かすように歩きなさいと指導したところ、見事歩き方が黒人と見がまうばかりの「バネの効いた」動きになったという。
我々の「いち、にー、さん、しー」も彼らにとっては、
「(ん)いち、(ん)にー、(ん)さん、(ん)しー」なのだ。
つまり一つの音に対して二重の意識が無意識に働く。よって、身体のアクションもダブルアクションになるし、リズムの認識も拍の頭にアクセントを置かずに少し遅れた箇所にアクセントを置くようになる。

たとえ話す言語が英語であっても、祖国の音楽や宗教が禁止されたとはいえ、奴隷としてアフリカから強制連行された記憶のまだ生々しい時代に生まれたブルース、そしてジャズのアクセントの置き方は明らかに西洋音楽の持つリズム感とは異質なものだ。

ベースやドラムを演奏する方はよく御存知のことと思うが、音を鳴らすタイミングというのは、ジャストなタイミングで発するよりも少し遅れて(つまり引っぱって)鳴らした方がリズムに粘りやウネリが出てくる。さらに引っ張れば引っ張るほど身体が裏返ってしまうような強烈なグルーブが生まれてくる。

ベースでいえば、ジャストなタイミングで、
「ベンベンベンベン」と弾くよりも、ほんの気持ちタメを置いて、
「(ン)ベ、(ン)ベ、(ン)ベ、(ン)ベ」と弾いた方が粘っこいリズムになる。
一見地味で脇役的な楽器でも、リズム楽器のプレイヤーの関心は音のタイミングや長さだったりするので、それはそれで非常に興味深いテーマだ。

また楽器をやっている方はお分かりだと思うが、頭の中で「歌える」フレーズは必ず「弾ける」。

もし弾けないようであれば、それは脳と身体の回線が直結していないだけで、一言で言ってしまえば練習不足だ。言葉が浮かんでも字を書けないようなもので、それは鉛筆を握る訓練なり、50音をマスターするなりの最低限の訓練は必要だ。

それが出来た上で、ある程度自己のイメージを楽器に置き換える作業が出来る人が脳に浮かぶリズムはどんなものだろう?

やはり「タメ」の効いた言語を話す人は、「タメ」の効いたリズム、「のっぺり」とした言語が母国語の人は、平坦なリズムが身体に染み込んだクセとして無意識に浮かぶのではないのだろうか。

話し言葉と呼吸は密接な関係がある。また、リズムと呼吸も密接な関係があるはずだ。無意識に普段話している言語の呼吸に近いリズムがイメージとして浮かぶのは想像に難くない。

レゲエは非常にリズムにバネの効いた音楽だが、レゲエに憧れた日本のミュージシャンが、来日したレゲエミュージシャンに「どうしたらあなたのようなリズム感を身に付けられるのですか?」と尋ねたところ、「とにかくジャマイカへ来い。俺たちと一緒に住んで、俺たちと一緒に食って飲んで笑って遊んで暮らせば自然と身に付く。」というような返事が返ってきたそうだ。

衣食住を同じ環境で共にする、当然コミュニケーションは現地の言葉だ。まさにそのミュージシャンに近い身体感覚(クセ)と呼吸が付く可能性が高い。

だとすると、一般にリズム感のあまり良く無いとされている日本人も、仮にアフリカのマリあたりで生まれ育てば、人種は違えど自然に身体感覚はマリの人々に近くなるはずだ。そして、イメージを身体に置き換える訓練さえすれば驚くべきリズム感の持ち主になるに違い無い。

リズム感の善し悪しは人種ではなくて、環境。さらにその環境の中で、身体感覚として「クセ」をつけるまでにいたる大きな要因は、普段何気なく話している「言葉」が多くのパーセンテージを占めているに違いない……。

以上はすべて私の推測・仮説なんだけど、あながち外れていないと思っている。

記:1999/06/08

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