クリスマスの頃には〜奄美 ゼローム神父の思い出

   

xmas tree

text:高良俊礼(Sounds Pal)

ゼローム神父

年に一度だけ「クリスマスの時期に“だけ”やってくるお客さん」がいた。

その人の名前は「ゼローム神父」ことゼローム・ルカゼウスキー神父。

戦後まだ奄美がアメリカの統治下にあった頃、アメリカからやってきた神父さんで、赴任した日から2003年に亡くなるまでずっと奄美に住んで、地元に溶け込んできた人だ。

この人は宣教師でもあったが、社会福祉活動に熱心な人であられたという。

児童養護施設を中心に、この人が設立や運営に関わった施設は現在も島内に多い。

また、施設や病院を毎日のように歩いて慰問し、キリスト教の信者であるなし関わらず声をかけて励ましたり、時に雑談の中で「神父さんすごいですね、

色んな施設を建てて・・・」という賞賛にも「ワタシは“ゼロ、無”です。おカネありませ~ん」と、ジョークなども飛ばす気さくな人柄で市民に親しまれていたという。

だから信仰といえばせいぜい実家の仏壇に手を合わせるぐらいの不信心な私や父でも「ゼローム神父」の名前はよく聞いていたし、色んな人から話も聞いていた。つまりこの人は「シマの有名人」だったのだ。

敬虔なやつネ

さて、このゼローム神父、ある時期から毎年クリスマスの10日前ぐらいになると必ずやってきて、クリスマスのCDを1枚だけ買いに来るようになったという。

私が奄美に帰ってきて1年目の1999年の12月、父が「そろそろ来る頃だね」と言ったその3日後に、果たして180cmぐらいのスラックスにYシャツ、カーディガンという至ってサッパリした私服姿で、絵本の挿絵に描かれていそうな温厚そうな「外国人のおじいさん」がやってきた。

この人が噂のゼローム神父かと思いながらにこやかに「いらっしゃいませ」と、声をかけると「クリスマスのCDをお願いします」と、言うのだが、この人がにこやかなのはここまでだった。

続けざまの一言の「敬虔なやつネ」 を放った瞬間、神父の眼(まなざし)は、とてつもなく厳しいものに変わった。

修羅場

私のようなタダの商売人にとってのクリスマスは「年末の掻き入れ時」でしかないが、クリスチャンにとってはイエス・キリストの誕生日という神聖な日である。

これはうっかりだった。

俗人の私の「クリスマス」に対する甘い認識は、目の前にいる老聖職者のまなざしと「敬虔なやつネ」の一言によって、このとき完全に打ち砕かれてしまったと言っていい。

こんな時に限って、頼みの綱の父はどこかへぷいっと出かけている。

苦し紛れに私は「クリスマスコーナー」から、「クラシック・クリスマス」等のオムニバス盤をセレクトして、恐る恐る「これなんてどうでしょうねぇ・・・」と言ったが、神父は一言「聴かせてください」。

聖職者にこんなことを言うのははなはだ失礼かも知れないが「修羅場」である。

私が再生するクラシックのクリスマス盤のことごとくが
「これは世俗的です」
「これはいけません」
と、バッサリ否定される。

もうクリスマスコーナーには聴かせてよさそうなCDはない。

グレゴリオ聖歌

焦ってクラシックのコーナーを見たら「グレゴリオ聖歌」のCDが1枚だけあった。

 

この時ばかりは「えっと、あの、信者でも何でもないモンがこんなことアレかと思いますが、その、キリストの神様お願いします!」と、心の中で祈ってCDをプレイヤーにセットした。

緊迫感溢れる店内に、低く優しく響く男女の静謐な歌声・・・。

神父は目を閉じてその調べにしばらく耳を傾けていた。

どうしようか・・・。

しばらく沈黙は続いたが、「ハイ、これは荘厳ですネ。素晴らしいです。これを買いましょう」と、神父は笑顔で言った。

時間にしたらたったの数分の出来事だったと思うが、その沈黙は私にとってとてつもなく長いものに感じられた。

会計を済ませて「ありがとう、また、来年もよろしくお願いします」と、神父はスーッと去っていったのと入れ替わりに「あぁ、今来とったんだね、ゼローム神父さんは」と、父が爽やかに帰ってきたが、私はもう大変だったと、事の顛末を話したら「そら厳しいよあの人は、教会でミサの時に使う音楽しか買わんもん。だからほれ、グレゴリオ聖歌一枚だけ置いてあっただろぉ」と、至って冷静だった。

それならそうと何故クリスマスコーナーに、それと判るように置いておかないのかと思ったが、他のお客さんが買ってしまって神父に空振りをさせては申し訳ないとの配慮だったのだと気付いたのは、その少し後になってからのことである。

年に一度の真剣勝負

さて、ゼローム神父の手厳しい「洗礼」を受けた私は、教会音楽やミサ曲、グレゴリオ聖歌についてその日から真剣に勉強をした。

あの「敬虔なやつネ」に、速やかに応えられるようになるには、コチラも真剣に学んで説明も出来るようにならなくてはならない。

何しろ向こうは「その道50年以上」のプロ中のプロである、付け焼刃の知識では歯が立つ訳がない。

バッハのクリスマス・オラトリオ、バードの4声、5声のミサ曲などなど、毎年必ず「荘厳」「厳粛」「敬虔」の3つの条件に適うCDを1枚だけ仕入れるべく、ノートにメモを取って、クリスマス前に私は備えた。

 

ゼローム神父は、次の年も、その次の年も「敬虔なやつネ」の言葉と共にゼローム神父はやってきた。

幸いなことに「これはいけません、世俗的です」を聞くこともなく、いつもにこやかにやりとりをすることが出来た。

年々丸くなっていく大きな背中を見送りながら「あぁ、今年もクリスマスが来たなぁ・・・」と思っていたが、私とゼローム神父との「年に一度の真剣勝負」は、4回目の「敬虔なヤツね」を聞いた2002年を最後に終わってしまった。

記:2014/12/06

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

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