ショナ族のムビラ

      2020/03/13

ambient<ジンバブエ>哀愁のムビラambient<ジンバブエ>哀愁のムビラ

何の予備知識も先入観もなしに聴いてみる。
うぉ、何だこの異常な心地よさは!?

強いて言葉に置き換えようとするのも悪い癖だが、「人力アンビエント」という、分かったようなよく分からない言葉が思い浮かぶ。

あるモチーフの反復による構成だが、よく聴くと単調な反復ではない。非常にデリケートな変化と、したたかなまでに計算されたリズム配列。

静かなようでいて、内から少しずつ熱くなってくるこの高揚感。

アフリカはジンバブエ。ショナ族のムビラ(ンビーラ)。

これは非常に気持のよい音楽だ。

親指ピアノ(サムピアノ)を中心に展開される演奏。

涼しげで冷静なくせに、どこかしら熱いこの音楽は、ブルガリアン・ボイスを初めて聴いたときの驚きに比肩するくらいの大きな衝撃だった。

親指ピアノに関しての説明を少し……。

少し大きい楽器屋に行けば民族楽器のコーナーに置いてある楽器なのでご存知の方も多いことだろう。共鳴源となる木の箱の上に、薄くて細い金属の帽が何本か並べられている。これを指ではじくと、マリンバの音を軽くしたようななんとも涼しげな音がする。

親指と人差し指でこの金属の棒をはじいて演奏するこの親指ピアノは、アフリカにしかない楽器だ。アフリカのサハラ以南の地域に点在するという。

カタチもまちまちで、地域によって木箱の形が異なったり、共鳴箱の材質が必ずしも木ではなく、ヒョウタンや人間の頭蓋骨(!)だったりするものもある。

また、はじき棒の本数もまちまちで、5本のものから50本もの本数が取り付けられたものまでが存在する。

余談だが、1770年前後にスイスで発祥したオルゴールはこの親指ピアノの構造が参考になっているそうだ。

この親指ピアノの中でも最も「楽器として」完成された形態をしているといわれているのが、ショナ族使用の親指ピアノ。

ショナ族の使用のものが金属棒の数が一番多く、共鳴源はヒョウタンだ。
名を「ムビラ(ンビーラ)」という。

ショナ族

ショナ族についても説明を少し……。

ジンバブエの高原には「グレート・ジンバブエ(巨大な石の家)」という巨大遺跡がある。これを発見したヨーロッパ人は「黒人がこんな凄いものを作れるはずがない」と驚いたほどのものだが、実はこれを建造したのがショナ族だ。

彼らは古くからジンバブエ国内で主要な役割を果たしていた人々で、内外との交易を盛んに行い豊かな生活をしていた。

前述の巨大遺跡を建造してしまうことからも分かるとおり、非常に優秀な部族だ。

そして彼らがひとたびムビラを演奏すると、信じられないほど気持の良い音楽が奏でられる。

一般にアフリカの音楽というと、太鼓がドンドコドンドコ鳴りまくり、人がギャーギャー騒ぎまくってパワー全開、という誤った先入観を持つ人もいるかもしれないが(そういう音楽もあるにはある。マサイ族やサンブル族の歌とか。)、ショナ族のムビラに関していえば、それは当てはまらない。信じられないくらいクールな音楽なのだ。
そしてアフリカ人ほどクールな感覚を持つ人種もちょっと珍しい。

矛盾する表現だが、ショナ族のムビラは一聴すると非常にクールな印象を受けるが、その実、内側はかなりホットだ。

露骨にウルサイ、音量が大きい、という分かりやすい「ホット」さではなく、表面は淡々としながらも、少しずつ少しずつジワジワとカラダの奥底からこみ上げてくる高揚感、これが彼ら流の「ホット」の表現なのだ。

うーん、なんとも「クール」ではないか。

ブラジルでボサ・ノバ運動が起こったときに、ある若い評論家が「オペラ主義の克服」と評したそうだ。

どういうことかというと……。

大袈裟なやり方で聴衆を圧倒し、起承転結や音量の強弱など色とりどりな「仕掛け」を設け、グイグイと聴衆を自分の芸術の世界に引っぱり込んでゆこうとする西欧人の考え方を「オペラ主義」だとすると、ダイナミクスに頼らずに淡々としたクールな表現を目指したのがボサ・ノバなのだ、ということだ。

ショナ族のムビラの表現も同様にクールだ。

露骨であざとい仕掛けは何もない。淡々とした演奏が一貫して続く。

均一性と反覆性はアフリカ人にとっては構造の弱さではなく、美的な力とみなされるのだそうだが(引用/ロバート・ガ-フィアス)、淡々とした反覆の中にも内的な緊張感が常にともない、内側から熱くなってくる。これが、ショナ族の「ホットでクール」なムビラなのだ。

彼らにとっての「ホット」とは我々のイメージするところのホットとはちょっと違うようだ。

西洋のオペラ、そしてシャウトするロックのボーカル。

「強調したいことは大声で」「音量大きけりゃ演奏も熱い」という西欧の価値観を何の抵抗もなく刷り込まれてしまっている我々にとっては、中々実感が湧かないことなのかもしれないが、大切なこと、言っておきたいことはむしろ小声で囁くように語りかけた方が効果が大きい場合もある(ちなみにムビラは小ボリュームです)。

ジャンルは違うが、マイルスのトランペットも、曲によってはこの考えに近い表現方法を取っていると思う。

例えば『サムシン・エルス』(Blue Note)の《枯葉》。

Somethin' ElseSomethin' Else

ミュート・トランペットで雄弁とは対極な表現で、慎重にメロディの輪郭をなぞっているいるからこそ、逆に我々はマイルスのラッパに耳を無心に欹ててしまう。

ロバート・ジョンスンに代表されるシカゴ以前のブルース。

感情が昂ぶれば昂ぶるほど、大声でシャウトをするようなことはせず、むしろ「んむー」と消え入りそうな声でうめくボーカル。

明らかに高揚する気分と表出する音量は反比例している。

彼らは祖先のアフリカ人独特のクールネスさを無意識に受け継いでいるのかもしれない。

このようなことを例にとって考えると、表現者の内的感情と、表出される音の内容というのは我々の想像以上に隔たりがある場合が多い。

「私がイイと思ったんだから良いものは良いし、悪いものは悪い」。

これはリスナーとしての正論だろう。異論はない。

ところが、表現者の持つ文化的コードや、表現背景を理解することを拒絶して、たかだか「私の身の回り半径数メートルと、私の人生ウン十年」程度の価値観に強引に照らし合わせて良し悪しを判断するのはどんなものかな、とも思う。

マイナー調だからといって即、悲しいわけでもない。
メジャーだからって、陽気で楽しいとも限らない。
音量が大きいからといってエキサイトしているとは限らないし、
静かだからといって演奏者の気分が沈鬱だとは限らない。

自分の守備範囲の文脈に無理矢理ねじ込んで解釈をしようとする。
考えようによっては、非常に傲慢な行為だと思う。

たかが音一つの表現をとっても実に様々な表現方法と聴こえかたがあるということを我々はもっと自覚するべきだろう。
安易に自分自身の狭い体験や、タカが知れている経験の蓄積と結びつけようとはせず、まずは出てくる音に対して虚心坦懐に接する姿勢が大事なのではないだろうか。

ピアノとウッドベースだから「大人っぽいわね、バーで飲んでるって感じ」、
電気マイルスを聴いて「4ビートじゃないマイルスはダメだ」、
軍歌を聴いて「右翼みたい」。

どう思おうが、それはそれで個人の勝手なのだが、少なくとも表現者の意図から外れた解釈をしているということは自覚したほうが良い。

だからといって100%表現者の意図や意志に寄り添う必要もないとは思う。
しかし少なくとも好きな音楽、気になるミュージシャンだったら、少しでも理解しようという意志を持ち、こちらから踏み寄っていこうとする姿勢も必要なのだと思う。

ことに、ショナ族のムビラは先入観なしに聴いても相当に気持ちの良いものだし、その気持ち良さに対して純粋な好奇心を抱くことこそ、我々「耳の冒険家」の楽しみなのだから。

記:2000/01/15

参考資料

江波戸昭『民俗音楽』
中村とうよう『大衆音楽としてのジャズ』
『ボサ・ノバの歴史』

 - 音楽