ギリシアのブルース「レンベーティカ」

   

text:高良俊礼(Sounds Pal)

大衆音楽とポップス

「音楽とは何か?」

という漠然とした、しかし深い問いが頭の中を駆け巡る時がある。

そんな時いつも思うのは、大衆音楽というものについてである。

「大衆音楽」今ではポップスと簡単に訳されがちであるが、その実はとてもではないが「ポップス」の一言や、華やかな画面の中のステージやビデオクリップに収まるようなそれではない。

たとえばアメリカのブルース

たとえばフランスのシャンソン

たとえばポルトガルのファド

たとえばアルゼンチンのタンゴ

そして日本の演歌や奄美のシマ唄

これらはいずれも「ポップス」とは呼ばれない。

しかし、社会の必ずしも上流に居るとは限らない立場の人々が、リアルな生活の悲喜こもごもを、詩やメロディーに乗せて唄ったものが、その根幹になっていることを考えれば、これらは立派な大衆の音楽であり、現代において十分に「ポップス」を名乗れる音楽であることに違いはない。

世界には、国の数、民族の数のオリジナルな大衆音楽がある。

私たちは、そのほんの一部しか知らないということを思い知らるものが「ギリシアのブルース」と呼ばれるレンベーティカ(レンベーティコ)だ。

オスマン帝国の侵攻

地中海文化発祥の地と呼ばれるギリシアが、古代文明の中心地として隆盛を極めたことを知る人は多いだろう。

が、古代ローマ帝国や、その流れを汲むビザンチン帝国の衰退と入れ替わるように、イスラム教徒のオスマン帝国がギリシアに侵攻して以降の歴史を知る人は恐らくそう多くはないだろう。

常にイスラム勢力とキリスト勢力の狭間にあって、度々領土地図が塗り変わってきたバルカン半島は、キリスト教とイスラム教、あるいは西欧系、スラヴ系、アラブ系、ユダヤ系など、様々な人種や民族が入り乱れ、それらが宗教や民族同士の対立や衝突、内戦や排撃などを繰り返しながら、それぞれの文化(大まかにいえばヨーロッパ的なものと、アラブ的なものが入り混じった)が独自の混合と発展を遂げてきた地域である。

レンベーティカは、その誕生の背景に、他民族による複雑な文化的混合というものを潜在的に持っていた。

しかし、レンベーティカという音楽の誕生に至るまでには、更に複雑で特殊な事情が必要だった。

トルコからギリシアへの強制帰国

それは1830年、400年に及ぶオスマン帝国からの支配からギリシアが独立を勝ち取ったことと、続く第一次世界大戦(1914年~1918年)によって、オスマン帝国が破れ、その領土が西欧諸国に分割統治されたことに端を発する。

いわゆる「ギリシアとトルコの移民交換協定」である。

自国に多くのイスラム教徒を抱えるギリシアと、多くのキリスト教徒を抱えるトルコとの間で、この協定は結ばれた。

特にトルコからは、100万人規模のギリシア人(ギリシア正教を信仰する人々)が、トルコからギリシアに強制的に帰国させられた。

「帰国」といっても、トルコに住むギリシア人達にとっては、300年以上も住んでいた故国から、財産の持ち出しはほとんど許されず、丸裸に近い状態での強制移住に他ならない。

当然ギリシア国内でも、彼ら交換移民に対する住民感情は決して良いものではなかった。

第一次大戦の戦勝国とはいえ、戦費で国家予算を大量に消費してしまったギリシア国内の経済は不安定化し、人口の急激な増加は、そのまま失業率の増加に繋がる。

独立して間もないギリシア政府にこの状況を打開する策はなく、交換移民のほとんどは職にあぶれ、港町にスラムを形成し、そこで差別と貧困、それに伴う犯罪や暴力、または酒や麻薬に溺れる退廃的な生活に明け暮れることしか出来なかったのである。

レンベーティカ誕生の背景

少々前置きが長くなったが、レンベーティカという音楽は、そんな交換移民達の過酷な生活の中から生まれた。

彼らが夜な夜な遊興にふけっていた、ハシッシュの臭いが立ち込める酒場に行けば、哀感を伴ったアラブ音階のメロディーが流れ、歌い手たちが日々の暮らしの悲喜こもごもを唄えば、それにブズーキ(ギリシアの伝統的な弦楽器)やヴァイオリン、アコーディオンといった楽器が時に切々と、時にコミカルな伴奏でそれに応える。

人々はハイになり、大騒ぎして、辛い生活の鬱憤を、酒とハシッシュによる陶酔と、レンベーティカの高揚で晴らした。

しかし、そういった酒場は例外なく暴力や殺人といった事件の吹き溜まりであり、度々警官隊に踏み込まれ、めちゃくちゃにされたという。

また、あからさまに男女の性愛や、犯罪を奨励するかのような歌詞が多いレンベーティカは、当局の弾圧の対象となり、レコードも度々発禁処分を受けるなどしていたが、人々はそれでも「レンベーティカ」を唄い演奏することを止めなかった。

それどころか1920年代から40年代にかけてレンベーティカは益々盛んになり、その独特の異国情緒と筆舌に尽くし難い郷愁を呼び起こすメロディは、非ギリシア語圏の国々の人々の心も魅了して、「レンベーティカ=ギリシアの大衆音楽」として広く世界に認知されるようになった。

レンベーティカ 音源

我が国ではライス・レコードより「レンベーティカ」というオムニバス盤が解説付きでリリースされているが、目下日本で聴けるこの唯一のレンベーティカのアルバムは、主にレンベーティカ黎明期から黄金期のSP盤の音源が収録されている。

古い音源であるがゆえに、その哀感には現代の洗練された音楽にはない生々しさがあり、音質云々といった物理的なものを超えて、聴く人の心にダイレクトに訴えてくるものがある。

収録曲の中には、アメリカで録音されたものも多くあるが、これはギリシアに住めなくなり、新天地を求めてアメリカに移住した人達が多かったことも物語っている。

もっとも彼らの「移民」としての苦しみは、アメリカに渡ったところで劇的に解消されるものでもなく、このCDの中ではアキレアス・ブロースが「なぜアメリカへ来てしまったか」という歌で、その切なる苦しみを吐露している。

しかしこのCDに収められた22曲の楽曲の何と美しいことか。

歌詞の内容は、男女の卑猥な関係を唄った艶歌もあれば、ハシッシュ吸引の悦びを唄ったもの、「祖国」トルコに切ない郷愁を寄せる唄などなど様々だが、その凝縮された退廃と享楽と哀切が生み出す「生」の美しさは、正にブルースと言っても良い。

恥ずかしながら私は30になるまでレンベーティカのことを知らなくて、このCDも「民族音楽で何か面白そうなのがあれば仕入れてみよう」という気持ちから、色々カタログを物色している時にたまたま出会った一枚だったが、試しに購入してみて、聴いてみた時、サン・ハウスやロバート・ジョンソンといった戦前ブルースや、シマ唄の里国隆、或いは浅川マキやアルバート・アイラーを初めて聴いた時と同じ衝撃を受け、同じ類の戦慄に近い感動を覚えた。

ギリシア語はおろか、英語すらもヒアリングだけでは満足に理解できない私であるが、こういった大衆音楽の「ホンモノ」と出会ってしまう時、必ず同じ感覚を体験する。

それは、未だに上手く説明できないのだが、その「上手く説明できない理屈抜きの感動」こそが、究極の「音楽体験」というやつなのではないかと、最近ようやく気付くに至っている。

「音楽は言語を超える」とか「ホンモノは理屈抜きで伝わる」という表現は、散々使い回されてきた陳腐なフレーズかも知れないが、自分の中でどう理屈をこねくり回しても、言葉の引き出しの中をひっくり返しても、レンベーティカを聴く時の、えも言えぬ郷愁と切なさを言い表す言葉が、他に出てこないのだ。

やっぱりホンモノは「伝わる」し、音楽は言語や民俗といった壁を越える。としか言いようがない。

記:2015/01/17

text by

●高良俊礼(奄美のCD屋サウンズパル

 - 音楽