トランプ政権と、芥川の「天才桃太郎」

      2018/07/19

暴君桃太郎

昨年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際、もしかしたら芥川龍之介の『桃太郎』を思い浮かべた人もいるのではないかな?

芥川バージョンの『桃太郎』を読んでいない人のために簡単に概略を書くと、芥川が描いた「桃太郎」は、とにかく日本昔話で語られる正義のヒーロー桃太郎とは真逆の存在で、平和の楽園である鬼が島を侵略し、殺戮、陵辱を繰り返すなど、悪さの限りを尽くすという話です。

侵略桃太郎

このハチャメチャぶりや、お爺さんやお婆さんから愛想を尽かされているところなどは、漫☆画太郎の『珍遊記』の主人公・山田太郎に近い存在かもしれませんね。

そもそも、桃太郎が鬼が島征伐を思い立ったのも、お爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったのが理由です。

それに、ケチなところもある。
「お供しましょう、一つ下さい」という犬に対し「半分やろう」と、黍団子(きびだんご)を半分しか与えません。

芥川桃太郎で描かれる鬼が島は、いわゆる南方の楽園のようなところです。
そこで鬼は琴を弾ひいたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったりと安穏と暮らしてるのですが、そこに突然やってきた桃太郎一行は、

「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」

犬は鬼の若者を噛み殺し、雉も鋭い嘴くちばしで鬼の子供を突き殺し、猿は鬼の娘を絞めしめ殺す前に、必ず凌辱を恣(ほしい)ままにしました。

最後に鬼の酋長は、桃太郎一行に降参するのですが、額を土にすりつけた後、恐る恐る桃太郎にこう質問するんですね。

「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点がてんが参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明あかし下さる訣わけには参りますまいか?」

そうしたら、桃太郎の返事はこうだもんね。

「(中略)鬼が島を征伐したいと志した故、(犬、猿、雉に)黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」

こうして、故郷に凱旋した桃太郎なのですが、このように暴虐、悪辣の限りを尽くす桃太郎の姿に、色々なサイトをネットサーフィンをすると、かつての日本の「外征」や「帝国主義の戯画」と捉えている人も少なくないようですね。

『蜘蛛の糸』との共通点

この物語が書かれたのは大正13年(1924年)。

日韓併合での民族間の軋轢、民族独立運動などが時代背景にあったり、翌年には治安維持法が施行されたりしていますから、たしかに桃太郎を日本の帝国主義になぞらえて芥川はパロディ形式で批判しているのだという捉え方も可能でしょう。

もちろん、私もそのような見方は否定しません。
でもね、物語の冒頭と終盤に登場する黄泉の国の桃の実と、それを啄ばむ八咫烏の描写も加えて考えると、単に「桃太郎は悪いヤツだぞー!」という話から、もう一段深いことを芥川は言おうとしているんじゃないかということに気がつくんですよ。

物語の構造は、

黄泉の国

人間世界

黄泉の国

という流れです。

この構造、どこかで見たことあるな?と思ったら、そうそう、同じ芥川作の短編『蜘蛛の糸』なんですね。

極楽浄土

地獄

極楽浄土

という場面転換ですから、この世があの世とサンドウィッチのような構造になっているんですね。

スタティック(静的)

ダイナミック(動的)かつドタバタ

スタティック(静的)

この流れのギャップや、時間意識のギャップのようなもので物語に深い彩りを与える手法って、芥川ならではの巧さが感じられます。

桃太郎ではなく人間社会を描きたかった?

そうすると、芥川は真ん中の「ドタバタ」つまり、人間社会の営みや愚かしさを、静かで悠久な時間が流れる「黄泉の国」や「極楽」と対比させることで生々しく描こうとしたんじゃないかな?とも捉えられるわけです。

そのような目線でいまいちど『桃太郎』を読むと、芥川龍之介の『桃太郎』は、見事に人間社会、特に当時の日本の社会をえぐりだした作品なのだなと深読みすることも可能なんですね。

いささか深読み過ぎるのかもしれないけれど、もし仮にそうなのだとしたら、この短い物語に封じ込められた人間社会や人間を観る芥川の洞察力は、歳月を経てもなお色褪せることなく、現代社会に生きる我々に対しても暗示と示唆に富んでいるのではないかと思うんですね。

大正13年のご時勢

繰り返すと、この物語が著されたのは、大正13年です。

日本の「外征」を作中の桃太郎の行動になぞらえているのだと捉えることも可能ですし、先述したとおり、それに対する批判であると読み解くことも出来るでしょう。また、来るべき日中戦争を予見しており、芥川は今後の日本の外征、侵攻、戦争を予見して描いたと深読みすることも出来るかもしれません。
でもそうなると、もう小説家を超えて、芥川さんは予言者になってしまいますね。

でも、そのことだけを描きたいがために『桃太郎』を執筆したのだとはどうしても思えないんですね。先述したように、物語本編の前後に「黄泉の国の八咫烏」の描写があるところからも、私はむしろ、芥川は天才(圧制者)に対して浮き彫りとなる民衆の姿を描きたかったのではないかと思うんですよ。

関東大震災1年後の作品

大正13年の1年前には関東大震災がありました。この震災は、もちろん東京に住んでいた芥川にも襲いかかります。

震災後、芥川は震災に関する随筆をいくつか著しているのですが、その中のひとつ『大正十二年九月一日の大震に際して』という作品があります。その中で、芥川は友人の菊池寛(「文藝春秋社」や「芥川賞」を創設した小説家です)と大震災に関する雑談を交わしているのですが、そのやり取りが興味深いのです。

震災に伴う大火の原因を芥川は、「不逞鮮人の暴動だそうだ」というと、菊池は眉を吊り上げながら「嘘だよ」と一喝。
芥川が「不逞鮮人はボルシェヴィキの手先だそうだ」と言うと、菊池は今度も眉を挙げると「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけたと書かれています。

芥川は「じゃ、(その話も)嘘だろう」と自説を撤回しているのです。

噂を信じる庶民⇒芥川
噂を信じず、噂に翻弄される庶民を叱る人⇒菊池

という図式ですね。

だから芥川は、噂を安易に信じない菊地のことを「完全に善良なる市民の資格を放棄した」と書き、自分のことを「善良なる市民」と位置づけています。
そして、「善良なる市民になることは、とにかく苦心を要するものである」とも書いています。

時は関東大震災の直後です。この時勢の中、対外的には「朝鮮人の迫害」に対して批判めいたことは言いにくかったのかもしれません。

もしかしたら芥川は、「善良なる市民はうわさを信じ込むものなのだ」と菊池の言葉で自分の考えを代弁させたのかもしれません。

この関東大震災後のゴタゴタで、噂に次ぐ噂に付和雷同し、異国民を迫害する市民意識や、そこから来るむき出しの差別感情を危惧して書かれたのが、翌年の『桃太郎』なのではないか、という見方も出来ないこともありません。

善良なる市民、この場合においては特に日本人の場合、一つの言説に惑わされ翻弄されやすいものである、ということを、芥川は菊池との会話で身をもって自覚したのかもしれないし、菊池の言葉を借りて主張したかったのかもしれません。

善悪の彼岸を超えた存在

芥川が物語で造形した桃太郎は傍若無人で、いわば「善悪の彼岸を超えた存在」ともいえます。

というのも、人間社会の尺度に照らし合わせれば、たしかに大悪人でしょう。しかし、この作中の桃太郎は、もとはといえば人間ではなく、黄泉の国から運命のいたずらで人間世界に突如舞い込んできた超越的パワーの持ち主だからです。

黄泉の国の木になる桃の実は、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけており、結んだ実は一千年の間は地に落ちないのですが、ある朝、一羽の八咫烏が小さな実を一つ啄み落とし、この実が人間の世界に流れ込み、そこから生まれた桃太郎。

つまり、八咫烏の気まぐれで黄泉の国から突然人間の世界に流れてきたため、彼の考えることや、やることなすことに、いちいち人間社会の物差しを当て嵌めたところで、ムダといえばムダなのです。

天才桃太郎

人間世界の尺度を超えた異常な能力を発揮する超越的な存在、つまり、この桃太郎的な善悪の彼岸を超えた圧倒的な存在を、芥川は「天才」と表現しています。

イタリアの精神科医で、犯罪人類学の創始者でもあるロンブローゾは、「天才」のことを「偶々地上に現れて忽然と消え失せる流星の如き」存在で、「ある者は異常な腕力を有し、民衆はその力を尊敬する者である」と記しています。

そしてニーチェは、行き詰まった時代を打開するためには「一切の道徳的偽善を必要とせずに行動し、命令を下すことが出来る天才、あるいは超人の出現に俟たねばならない」としています。

要するに、一般市民は天才という圧制者の前には抗う術もなく、しかしながらどうしようもない世の中に陥った際には、軽蔑かつ嫌悪しつつも圧倒的に力を持つ存在を希求せざるをえない。このようにか弱く「個」のない一般市民の姿は、芥川龍之介が生きた時代から100年近く経とうとする現在の日本社会においても変わることがないように感じられてなりません。

100年前と変わらぬ日本人

戦後の高度経済成長を経て繁栄をしてきたかのように見える現在の日本ではありますが、バブル崩壊後の多くの日本人には豊かさの実感が乏しく、くわえて「個」というものが希薄であるということは、芥川が「善良なる市民」と皮肉った100年前とそれほど変わっていないような気がします。

「豊かさの実感」がなく、ゆえに「個」を確立していない民衆は、社会の大きな波に揉まれた場合はどうなるのか。自らが切り開いていくという気概を持つ者はおらず、おそらくは芥川が描く桃太郎のような超越的な圧制者の到来を待ち望むほか術がないのではないかと思われます。

たとえ、それが歓迎せざる暴力的な「天才」の出現であるにせよ、また嫌悪すべき対象であるにせよ、自らはどうすることも出来ない以上、圧倒的な力を持つ「天才」に期待をかけざるをえない。たとえそれが屈辱に満ちたことであれ、追い込まれてしまった社会の大衆は、「人の法も神の法も意に介さず蹂躙する天才」に望みを託さざるを得なくなるのでしょう。

世の中が弱ったときに出現したら……?

これはなにも日本国民に限ったことではなく、アメリカで昨年トランプ大統領の政権が誕生したことも、そのことを象徴しているのではないかと思います。

経済不況、移民問題、労働問題、高齢社会、所得に教育や医療の格差……。

これら社会が行き詰まり閉塞感を打開する兆しが一向に見えない時に、黄泉の国から何かの偶然で圧倒的なパワーを持った圧制者(芥川は「天才」と呼んでいる)が出現した場合、我々「善良なる市民」であり「民衆」は、圧制者に翻弄されるがままになるのでしょうか?

しかし、これからの歴史は英雄や豪傑、エリートがつくるのではないのではないと思います。
無名の民衆が紡ぎ出すべきものであるはずだ、と理想論を(一応)述べておきましょう。

迷い、流されつつも、民衆は変革の原動力にもなるはずである。それは近年においても「アラブの春」の例などからも明らかです。

団結せよ!暴動を起こせ!と主張しているわけではないですよ。圧制者(=天才)に翻弄されるがままでイイんですか?ってことです。

芥川は『桃太郎』の最後を、

しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢こずえへもう一度姿を露あらわすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。

と結んでいます。

つまり、いつなんどき、ひとたび運命の歯車がわずかに狂えば、ふたたび桃太郎のような「天才(=圧制者)」が世に現れるぞ、と警鐘を鳴らしているのです。

私たちは、次の「天才」が出現する時までに(もう出現しているかも、ですが)、彼に抗えるだけの「個」や「信念」を持てるのでしょうか?

記:2017/09/01

 - 小説