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ジャズと映画とプラモの日々:高野雲

『南極料理人』は、不思議と何度も観たくなる映画なのだ

      2018/07/07

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イモトを見たら観たくなった

イモトアヤコが南極の山、ヴィンソン・マシフの登頂に成功するまでの過程を描いた「世界の果てまでイッテQ!」のスペシャルを観ていたら、映画『南極料理人』を思い出した。

思い出すと同時に、ふたたび鑑賞したくなってきた。

この映画、特に感動の超大作というわけでも、『南極物語』のような壮大なスケールと音楽で描かれる感動大作というわけでもないのに、なぜか不思議と心の中に余韻の残る映画だ。
したがって、3回くらい過去に見ている。

不思議と残る「余韻」

映画『南極料理人』は、主人公の堺雅人が料理人として南極に行くに至るまで、行った後の暮らしぶり、帰国、帰国後の生活という一直線かつ淡々とした流れの中で、同行した隊員たちの生き様や交流を描いた作品だ。

ストーリーの進行は、先述したとおり、比較的単調といえば単調なのかもしれないが、きたろうや生瀬勝久、そして豊原功補をはじめとしたベテラン俳優たちの演技や、まるで氷上を2足歩行でひょこひょこと歩くペンギンのように奇妙でユーモラスなリズム感が、淡々と進行するエピソードを単調に感じさせない。

これが、鑑賞後に残る不思議な余韻の一つかもしれない。

そして、余韻といえば、やはりラスト。

南極から帰った主人公は、家族サービスで妻と娘を遊園地に連れて行く。

まずそうなテリヤキバーガーを口にした瞬間「うまっ!」。

ここでこの映画が終わるのだが、この堺雅人の「うまっ!」が妙に心に残り、この映画が持つ独特なリズム感やムードをこの一言が代弁しているとすら思えてくるのだ。頭の中で余韻を転がしていると。

もちろん、なぜ料理人である堺雅人が遊園地の中でクタッとクタビレた包装のテリヤキバーガーを食べて「うまい」と思わず口に出したのかか、その理由は分からない。

今までそっけない態度をとっていた家族が、そっけない態度でありながらもさりげなく娘の誕生パーティの料理人に自分を任命した(自分を必要としてくれる)気遣いに対する嬉しさからつい口に出た言葉なのかもしれないし、気遣いといえば、一方的に誕生パーティの話をまくしたててテリヤキバーガーを食べる暇のなかった自分に対する妻のさりげない気遣いへの感謝の念が芽生えた瞬間、テリヤキバーガーを口にして思わず出た言葉なのかもしれない。

それとも、料理人でありがならも、ファーストフードも食べるし、料理の値段やジャンルはどうであろうと、遊園地の中ではジャンクフード(いや、ファーストフード)も食べるし、うまいと思ったら美味いという、つまり自分は料理人であるというような矜持を持たず、素直に旨いと感じたら旨いといえる飾らない主人公の性格を代弁するための演出だったのかもしれないし、適材適所、どのような場所やシチュエーションであっても、その場を楽しめる主人公の順応性の高さ(=だからこそ、最果ての地、南極でも料理人を勤め上げることが出来た)をさりげなく示す演出なのかもしれない。

などなど、色々なことが考えられるが、その演出意図や、なぜそこをラストシーンに持ってきたのかに関しては、監督やそれを演じた堺雅人に実際聞いてみないことにはわからないことだろう。

しかし、そういうなんでもない一瞬一瞬の断片が、この映画を見たひとそれぞれの心の中に残り、小さいながらも確かな余韻がしばらく残る。だからこそ、また見たくなってしまう映画なのかもしれない。

メロディも耳に残る

それと、あのほのぼのとした口笛がリードのメロディをとる音楽。
あのメロディとホンワカとした曲調も、妙に記憶に残るよね。

つまり、どこまで制作側は意図したのかはわからないが、妙にひっかかる要素が無数に潜んでおり(それも観る人によってポイントが違うと思う)、だからこそ、それを反芻した時に、再び観たくなる作品なのだ。

記:2018/02/25

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