最近のメールのやりとりで感じたこと 2002/01/25

物事には多面的な見方があるわけだから、「疑い」の目線で観察することも私の選択肢の一つになっているわけで、現に福沢諭吉は「事物を疑って取捨を断ずる事」という文章を明治九年に発表し、日本人の懐疑精神の欠如を指摘し、西洋の文明は「疑」の一点から生まれたことを力説していたが、それから120年以上経た今日においても、日本人の懐疑精神の欠如は克服された様子はなく(むしろ知力崩壊に拍車?)、相も変わらず、通りいっぺんの情報発信者の目線に乗っ取った、悪く言えば「ご都合がよく、心地のよろしい」解釈以外を良しとせず、違う側面からモノを見ることすら許せないようなスクエアな人間がまだまだいるのだなと、最近のメールのやり取りで痛感。

あらかじめ自分が予想したリアクション以外の反応や意見が返ってきたことに腹を立てるぐらいなら、最初から“自分が言って欲しい言葉”だけを九官鳥のように復唱してくれるサービス精神旺盛な人間や、気の合う仲間同士と仲良くツルンで、楽しく、傷つかず、刺激の無い“ヌルい”空間で「癒される」がよろしいかと思われ、私は「言って欲しいことを言ってあげる」ほど人も良くないし、そもそも思ってもいないことを我慢して「そうだねぇ、そう思うよー」なんてご追従をしながら、相手のゴキゲン取りだけに終始することはゴメンこうむるし、そんなことを繰り返すのは、時間と労力の無駄だと思っている(それは、誰だってそうでしょう?)。

投げかけられた問いに対して、自分なりに考えたことを「自分の言葉」でもって返してあげることこそが、相手に対しての誠意、そしてサービスだと私は思っているのだが、その内容次第では、議論の対象から一気に「私の人間性」という関係のない土俵までに飛び越えて、「ヒネクレている」「弱い人間だ」などといった、私の人間性を云々するというフライングに走る人間も広い世の中にはまだまだいたもので、これって「教団の教え」に乗っ取っていないことを主張する人間を排除しようと躍起になる新興宗教の教徒のようなもんで、怖いよな、などと考えながら、一人、飲み。

三文日記

Posted by