カフェ・モンマルトル

高野雲の雑記帳。音楽・映画・読書・模型。

雑想 2007年10月

      2022/04/26

最近の子はせんべいを食わない?

最近の子って、おせんべい食べるのかな?

今日さ、息子の友達が2人遊びに来て、んで、「腹減ったぁ!」と五月蝿いので、おせんべいを何種類か出したのよ。

そしたら、全然手がつけられてない。

だから、追加でキャラメルコーンとポテトチップスも出したんだけれども、そっちはあっという間に空になった。

おせんべいもさ、醤油の二度付けせんべいとか、黒糖アラレとか、結構うまくて凝ったやつ出したんだけれども、うーん、せんべいって食う習慣無いのかな?

油で、しかも安い油で、満腹感を感じる油系のお菓子のほうに慣れてるんでしょうかね? いまどきの子は。

あるいは、アゴや歯を使うせんべいよりも、ラクに噛んで飲み込めるタイプのお菓子のほうがいいのかな?なんて思いました。

といっても、サンプルは2人かいないから、いまどきの子は、とくくるのも強引ですが。

あ、そういえば、そうそう、すまん、すまん、座敷ワラシの話がまだ終わってないよね。

また、今度!(笑)

数時間後には、関西行きなの、私。

記:2007/10/09(from「趣味?ジャズと子育てです」)

今の俺には孤独が足りねぇ

先日、ある人に「今の俺には、何が足りないですか?」とたずねたら、「孤独が足りない」と言われました。

そうなんです、そのとおりなんです。
昔から、それは感じていた。

高校時代の日記を読み返してみると、いくつかの箇所に、「翳作り(かげづくり)」という言葉がでてきているのですね。

「翳作り」とは、当時、早く大人になりたかった私は、今の自分と、好きだった女の子をカッコいいスポーツカーに乗せて去っていった大人の違いは何だろう?と真剣に考えたことがあります。

社会人、金銭的な経済力はもちろんありますが、それとは別に、彼にあって、私にないもの。それは、顔にきざまれるシワとか、大人ならではの風格、厳しさのようなものだと思ったのですね。
だから、青少年で青臭い部分を捨て、大人のような孤独な「翳」を欲したのです。

だから、夜の新宿の当時の副都心を太陽にほえろのオープニングの石原裕次郎みたいに歩いてみたり、渋谷の安い立ち飲みバーで煙草をくゆらせてみたり、背伸びをしていた。
そうすれば、なんとなく孤独の影のようなものが自分の存在感に刻まれるかな、と思っていたのですね。

今となっては、アホでムダなことをしていたもんだと鼻で笑ってしまいますが、その頃から、私は、「真に孤独な状態」というものに憧れていたことは確か。

で、ズルズルと大人になって、翳など刻まれずにツルツルした大人になって、いまだに、孤独な状態に憧れつつも、なりきれないユルい私なのです。

一人になるために旅に出るとか、山にこもるとか、そういったあえて環境を外界や社会的なつながりと遮断することだけが孤独な状態とは限りません。

誰とも話さず、じっくりと自己に没入して考えいる時間をどれだけもてるか、これが大きいと思う。

残念ながら、今の私は目の前のことの処理に奔走しているだけで、没入という言葉とは無縁だもんな。

記:2007/10/13

生と死の幻想 キース・ジャレット

「静謐」なイメージのつきまとう本盤だが、タイトル曲などは、デューイ・レッドマンのテナーがはいると、かなり盛り上がる。

その部分は楽しいし、好きだ。

その背後で、こちょこちょと細かい動きをするギレルミ・フランコのパーカッションがけっこう面白く、新鮮といえば、新鮮。

でも、どうしても、冒頭の「チン!」は辛気臭く、抹香臭く、ま、そういうイメージがキースの狙いだということは重々に分かりつつも、いや、なんだか、怪しいフリージャズのイントロのようで、いつ聴いても聴く気が失せる(笑)。

で、やがて始まる、チャーリー・ヘイデンの、どよーん!なベースで、ああ、またかよ、イントロの思わせぶり攻撃はまだ続くのかいな、って感じるのは私だけでしょうか?

後にそこにかぶさるキースのピアノは良いんですが。

でも、キースのピアノが入ってくるまで、6分近くすでに経ってますぜ、これほどの長い時間必要なんでしょーか?

長くしなきゃいけない音楽的必然性って、それほどあるんだろーか?

きっとあるからやってるんでしょうけど、どうも長過ぎで寝てしまう可能性アリ。

というか、8分近く経ってからようやく入ってくるデューイ・レッドマンのサックスを待っている間、じーっと、椅子に座って腕組んで、うつむき加減で、じーっとスピーカーに耳をこらしている自分の姿を想像し、客観的に見つめると、それはかなり滑稽な姿に感じてしまう。

ガラにもなく、なにやってんだよって(笑)。

もちろん、名盤としての誉れ高い本作なんで、演奏内容にケチつけるつもりは毛頭ないんだけれども、いや、奥深い内容だと思いますよ、マジで、

しかし、なぜなんだろう、『生と死の幻想』なんてすごいタイトルとは裏腹に、これを聴くたびに、これをマジメに聴いている自分の姿を想像して笑いがこみあげてしまう私は、さらに、たとえば、30人ぐらい客がはいった満席のジャズ喫茶で、客全員がこれを聴きながら腕をくんで「うーん」とうなっている光景を想像し、その光景のあまりの異様さゆえ、怖さを通りこえて、爆笑一歩手前の状態になってしまう私は、頭おかしーんでしょーか?(きっとそうに違いない)

ただ、これだけは言えると思う。

辛気臭いジャズって、笑いと紙一重だってこと。

たとえば、ガトーなんかそうだよね。

コルトレーンの後期の演奏だって、場合によっては、そーいうものもある。

だって、100パーセント真剣に付き合ってられませんよ。付き合ってられますか?真面目に。

演奏者に対して失礼だとは思いつつも、一応、きちんと聴こうと努力はするんだけれども、それでも、どうしても、送り手と受けての意識レベルの違いというものからくる、「うーん、ちょっと深いところまでは付き合いきれませんなー」というものってのもあると思うんだよ。

「いや、そんなことない。すべての演奏者の境地にまで俺は達することが出来るんだ」という人がいたら、その人はきっとウソツキだ。

わっかんねーなぁなことが多く、
理解しがたいなぁなことが多く、
謎だよなぁなことが多く、というか、これらのことってジャズを聴けば聴くほど増えてくることなのかもしれない。

だから、私は今日も飽かずにジャズを聴くわけだけだが、今日はこんなことを書いていても、明日『生と死の幻想』を聞いたら、涙がボタボタこぼれる可能性も多いにあるわけで、だからジャズは(ただし、優れたジャズは)面白いのであります。

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