「ジャズを流す店」について考える

   

団塊の世代

立ち食い蕎麦屋、カレー屋、ラーメン屋、居酒屋。
もはやジャズは飲食店の定番BGMともいえる。

さらに、これは私の予想なのだが、団塊世代の大量リタイアゆえ、「かつて好きだったジャズ」を第2の人生の生業にしようと、ジャズの店をオープンさせる団塊世代がこれから増えてくるかもしれない。

いや、店舗数は増えないかもしれないが、ここのところオジサンロックバンド(多くはベンチャーズのコピーバンド)が増えているのと同じように、ジャズの店には団塊世代客が増えることは容易に予想できる。

「かつて好きだったもの」への郷愁、「あの素晴らしい愛を……」じゃなくて、「かつての青春をもう一度」。

仕事で人生を走り続けてきた世代が、ふと立ち止まって振り返ると、そこにあるものは、ある人はGS、ある人はベンチャーズ、ある人はビートルズ、ある人はジャズなのだろう。

店のスタンス

ノスタルジア。

あの頃好きだった音を、じっくりと堪能したい。

子供たちは就職、あるいは結婚し、家を出て行った。
教育費もかからない。
オーディオ装置に凝れるだけの金銭的な余裕もある。

それで聴くのは、まさか歌謡曲でもロックでもあるまい。
となると、タンゴ、クラシック、シャンソン、あるいはジャズあたりだろう。

こういう人たちが(今でも多いが)ジャズを流す店の常連として増えていくことは想像に難くない。

だからこそ、今ほど、「ジャズを流している店」は、「流す店」としてのスタンス、ありようがキチンと考えられるべき時代はないと思うのだ。

BGMとしてなのか、ノスタルジーなのか、キチンと聴かせるつもりなのか。
スタンスをハッキリさせないと、客の求めていることを見失いかねない。

昨年オープンした六本木の「鳥良」のように、パラゴン、アルテックといった高価オーディオ設備があって、きちんと聴こうと思えば、持ってきたCDもかけてくれる上に、BGMとして聞き流そうと思えば、心地よく料理と酒を楽しめるような店も出現している。

また、一方では、四谷の「いーぐる」のように、昼は私語禁止、本当にジャズを聴きたい人が「聴きに行く」店もある。

「いまどき、私語禁止?そんな昔じゃあるまいし」と笑うなかれ。
昼間の「いーぐる」は、ほぼすべてのテーブルが満遍なく客で埋まっているのだ。

つまり、キチンとしたオーディオ装置で、キチンとジャズを聴きたいという人間がいかに多いのかという証にほかならない。

と、同時に、席が埋まっているということは、ジャズをキチンと聴きたい!という客の需要を満たしているわけだ。

もっとも、そのような形態の店が他にないため、ジャズに飢えた人種が四谷に流れてきている、ということも考えられる。

訪問目的

私は、平日の昼間は、神保町の「BIG BOY」で小1時間を過ごすのが常だったが、ここのところ、足が自然と四谷に向かってしまう。

先週は3日連続で、昼間の私語禁止の「いーぐる」に大音量のジャズを聴きに行った。
昨日も昼間の「いーぐる」でジャズを聴いていた。

いったいこれは何を意味するのか。

今の私は、「ジャズが流れている店」に行きたいのではなく、「ジャズをかけている店」に行きたいのだということに気が付いた。

「流れている店」と、「かけている店」。

両者の差は、同じようで、全く違う。

もちろん、ジャズが「流れている」、神保町の「BIG BOY」も好きだし、今でも最低週に2度は足を運ぶ。

しかし、ここのところ、自分の中にハッキリとした区分けができつつある。

つまり、「BIG BOY」は、昔からの友達の林さんと世間話をしに行くところ。
で、林さんや奥さんと会話をしているバックに“たまたま”ジャズが流れている。

「自発的にジャズを聴きに行く店」ではないな、と。

もちろん、好きなジャズもいっぱい流れるし、音だって悪くはない。
この音聴きたさに店にやってくる客も少なくない。
ジャズ喫茶としての条件を満たす「環境」は、万全に整っていることはたしかだ。

しかし、それでも、最近の私が「BIG BOY」に行く感覚は、ジャズを聴きに行くのではなく、「友達に会いに行く感覚」になってしまっている。

「選曲」が大事

ジャズ喫茶としては文句のない環境なのに、私が感じる違和感は何か?

それは、1にも2にも選曲にあった。

「マスターの好みが私の好みじゃないんだ!」と駄々をこねているわけじゃないよ。

好みでないジャズも、好みのジャズに変わる可能性が常にあるのがジャズ喫茶というところ。

つまり、マスターの腕次第では、客が嫌いな、あるいは嫌いだと思っていたジャズを「好き」に変えることも可能なのだ。

旨い酒を出すのがバーテンの使命。
旨い料理を食わすのが料理人の使命。

だとすれば、旨いジャズを聴かせることが、「ジャズを“かける店”」の使命であるはず。

たとえ、客の好みでない素材でも、どう料理して客に「おいしい」かといわせるのが、料理人のミッションであるならば、客の好みではなさそうなジャズも「旨い!」といわせるための工夫を凝らさねばならない。

その工夫とは、選曲だ。

つまり、マスターが客にアルバムをかける順番だ。

考えてかけているのか、ただかけているだけなのか。

客はこれを敏感に見抜く。

「あ、このアルバム、オレの好みだ」で喜ぶのではなく、「あのアルバムの次に、これがかかると、思ったよりよく聴こえるぞ!」で喜ぶのだ。

要は、選曲。

デザインや文章もそうだが、「並べ方」を考えることは重要だ。
レイアウト次第で、「言いたいこと」「強調したいこと」は、活きもするし、死にもする。

アルバムとて同様だ。
どんなに素晴らしい音源も、並べ方次第で、活きもするし、死にもする。

ピアノトリオの次に、3管編成のハードバップを挟むことで、両者が引き立つ。
あるいは、しみじみとしたギターとベースのデュオの後にガツン!とビッグバンドのブラスが咆哮するからこそ、ビッグバンドの楽しさを、より一層実感できる。

もちろん、一関の「ベイシー」ではないが、マスターの好みの曲しかかけない、リクエストは受け付けないというスタンスの店だってある。

それはそれで店の方針だから、文句を言っても仕方がない。
気に入らなければ、次から行かなければいいだけの話だ。
反対に、マスターの好みと客の好みが一致すれば、両者にとっても幸福だ。

神保町の「Big Boy」

しかし、自分の好みのジャズだけをかけることって、じつは結構シンドく疲れることでもあるんだよね。

「BIG BOY」のマスターがまさにそうだった。

開店1ヶ月たらずで、もう「ジャズ疲れ」していたから(笑)。

「ジャズ喫茶を開店すれば、一日中、好きなジャズばかり聴けるとワクワクしていたんですけど、もう一生分のジャズを聴いた気分です。なんだか疲れちゃいました(笑)」

半分冗談なんだろうけれども、ボソッと私に語ったことがある。

それは、きっと似た傾向のものばかりをかけていた弊害だったのだろうと思う。

開店前は、「あれもかけよう、これもかけよう」と、ワクワク、ルンルン(死語)していたに違いない。

しかし、いざ、開店して、かねてからの念願どおり、ビル・エヴァンスや最近のヨーロッパのピアノトリオばかりをかけまくった結果、一気に楽しみを蕩尽してしまったのだろう。

だから、私なりに、もっと管をかけたほうがイイんじゃない? などと、あれこれアドバイスをしていたんだけれども、だんだん「あなたはウルサイジャズが好きだから」とあしらわれて終わるようになった(笑)。

「何か聴きたいのかけましょうか?」と聞かれるのは、いつもお客が一人もいなくなったとき(笑)。

ま、そのときは、大音量でドルフィーをかけてくれたりするので嬉しいんだけれども、「店として」かけてくれるのではなく、「お友達として」義理でつきあってくれているような感じ。

ま、マスターの趣味にとやかく言っても仕方がないし、マスターが目指す店のテイストってものもあるから「もっとガンガンかけなよ」と最近は言わないようにしてはいるし、結果的に、「BIG BOY」のマスターの人柄や趣味に好意を持つお客さんも増えてきているので、それはそれで良いことなのではと思っている。

マスターに身の上相談をする人もいるし、その中でも圧倒的に多いのがオーディオマニアだ。
機材や配線などマニアックな話に花を咲かせる客が多い。

ジャズ入門者の女性客も最近は少しずつ増えている。

「イタリアジャズっていんですよぉ~。ホラ、イタリア人ってラテン系でしょ?だから、楽しいんですよ、聴いてて」と、入門者にイタリアジャズのトリオを薦め、それでお客さんが喜んでくれればそれでイイんじゃないかと思う。

店の使命は立派に果たしているし、お客さんも満足だろう。

……しかし、イタリアジャズで入門して、イタリアジャズばっかり聴いて、その人が本当にジャズを好きになり、聴き続けられるのかは、はななだ疑問だが(笑)。

レコード室からの無言のメッセージ

それにしても、「いーぐる」はやっぱりイイ。

後藤さんは、ほとんどレコード室にいるので、行っても会話を交わさないことのほうが多いんだけれども、レコード室の中からも気迫がこちらに伝わってくるからね。

ガラス一枚隔てて、「コレはいいぞ! オレが選んだ良いジャズを責任持ってかけてるんだ!」という無言の自信・気迫が、音と、飾られるジャケットからビンビン伝わってくるのだ。

「店主はいいジャズをキチンとかける。客はいいジャズをキチンと聴く」

滅茶苦茶アタリマエなことだ。

これが当たり前だとずーっと私は思っていた。
だって、この店でバイトしていたからね(笑)。

でも、このアタリマエが実践されている喫茶店って、今は、はたしてどれぐらいあるのだろう?

かつての、神保町の「響」、上野の「イトウ」は、もう無い。
馬場の「イントロ」は健闘しているが(最近はあまり行ってないけど)、吉祥寺の「メグ」は古いレコードが一掃され、むしろ夜のライブハウスになってしまった。

ゴールデン街の「シラムレン」も、なかなか硬派で好きだけれども、「喫茶」じゃないからね。

もちろん、「いーぐる」だってガツーン!とくる熱血ハードバップばかりかかるわけじゃありませんよ。
新譜もかかるし、ジョン・ルイスだってかかる(笑)。

でも、同じジョン・ルイスのアルバムでも、なーんか違うのよ。

「あ? お客さんジョン・ルイス好きなんだ。じゃあ次はジョン・ルイスかけてみましょうか」という経緯でかかるジョン・ルイスと、「次は、ジョン・ルイスだ!」と、選曲の流れの中でかかるジョン・ルイスの『グランド・エンカウンター』は。

あまり好きなアルバムじゃなかったけれども、ついつい聴き入ってしまう選曲の流れと、聴かせてしまうマスターの気迫と、心地よく鑑賞させてしまう店の環境。ビル・パーキンスって意外といいじゃん、と思わせてしまう店のオーラ。

小バカにしていたファイヴ・スポット・アフター・ダーク(ブルースエット)のB面は、大音量で聴くと、ギャリソンのベースが意外にイイじゃん! と気付かせるだけの説得力。

こればっかりは、年季の差なんでしょうね。

「いーぐる」は1967の開店。
もう今年で40周年だ。
これに対して、
「BIG BOY」は今月の20日でようやく開店して半年。

「BIG BOY」は、まだまだ試行錯誤中だろうし、店としてのスタンスや、お客との距離の取り方もまだ完全には確立してはいないのだと思う。
「いーぐる」と同じ俎上に乗せるのは、ちと酷かもしれない。

『BIG BOY」の今後の店の展開、選曲に期待したいと思う。

選曲哲学

つらつらと書き連ねてきたが、「ジャズを聴かせる」、これって、シンプルだけれども、じつはとても大変なこと。

ブレた軸足は、すぐに音で分かってしまう。

だからこそ、「ジャズを流す店」には、今後、より一層「ジャズを流すこと」に対しての店なりの立ち位置が求められるのだ。

身もふたもない言い方だが、悪い選曲よりは、有線の選曲のほうがずっと「聴ける」ことが多い(あれも、じつは後藤さんが選曲している)。

「選曲」に対しての哲学がない店は、ヘンに好みを主張した音をかけて客を「?」にするよりも、有線を流しっぱなしにして、そのぶん料理や酒、接客に身をいれたほうが、よっぽど店のためにも、客のためにもイイと思う。

※たまたま自分にとって身近な例として「BIG BOY」と「いーぐる」を引き合いに出したが、「BIG BOY」に対しての悪意はまったくありません。林さん、夜、飲みに行くからさ、そのとき、この問題について、じっくりと語り合いましょう。(え?いやだ?・笑)

▼後藤さんの選曲哲学が垣間見れる良書
ジャズ選曲指南―秘伝「アルバム4枚セット」聴き (オフサイド・ブックス (36))ジャズ選曲指南―秘伝「アルバム4枚セット」聴き

記:2007/06/08

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