デイヴィス・カップ/ウォルター・デイヴィス Jr.

   


Davis Cup/Walter Davis Jr.

ファンキージャズとブルーノート

最初から作曲するのが面倒だから、コード進行はブルースや既存の曲から拝借。

で、これを基にして、とにかく火花が散るような即興演奏を繰り広げるのがビ・バップ。

ビ・バップのスリル、スピード感もいいけれど、そして、ビ・バップ期にはパーカー、ガレスピー、パウエルなど傑出した大物が登場したので、ビ・バップっていうジャズの一形態は、素晴らしいといえば素晴らしいんだけど、やっぱりこれって一部の閃きと肉体と反射神経に恵まれた楽器奏者のみに許される、ある意味敷居が高いわりには一般受けしない音楽なんだよね~、……と、マイルスをはじめ、後進のジャズマンたちが考えたのかどうかは分からないけれども、ビ・バップのエッセンスを、もう少し「演奏」ではなく「アレンジ」や「曲としてのまとまり」にフォーカスしたのがハード・バップ。

で、このハード・バップも、演奏されていくうちに、ジャズマンの個性や表現したい方向性によって、様々な方向に枝分かれしていき、ファンキージャズというのは、ハードバップに、もう少しゴスペルの要素を取り入れましょうとなったスタイルです。

ファンキージャズは、初期のハードバップと比較すると、テーマの旋律が分かりやすくキャッチーになり、アンサンブルもコール・アンド・レスポンスを取り入れたり、ブレイクや合いの手を効果的に盛り込んだりと、アレンジ面に工夫がなされているものが多いですね。

ファンキー・ジャズの金字塔は、やっぱりホレス・シルヴァーのブルーノートに吹き込んだ一連の作品だったり、『モーニン』の頃のアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズだったりするわけですが、このような「立派で誰もが認める」作品の陰に隠れながらも、ひっそりと、しかし力強く存在感を失わずに聴き継がれているのが、ドナルド・バードの『フュエゴ』だったり、ウォルター・デイヴィスの『デイヴィス・カップ』だったりすると思うわけです。

フュエゴ
フュエゴ

あ、そういえば、全部上に挙げた作品ってブルーノートだな。

ブルーノートはアレンジに重きを置くジャズレーベルであることは皆様ご存知の通り。

アレンジを効かせた演奏は、いきなりヘッドアレンジの紙を渡されて「せーの!」で出来る類のものでもない。

だから?
⇒入念なリハーサルが必要

中にはコード進行が難しくて、さらにキメの部分の譜割りのアンサンブルがなかなか一致しなくて、何度も何度も練習してもうまくいかずに、「そのうちなんとかなるだろ~」とメンバーが呟いた言葉が、そのまま曲名になったコルトレーンの《モーメンツ・ノーティス》って曲もあるぐらいですから、やっぱりブルーノートのアンサンブル重視、リハでもギャラ払うという方針がなければ、今頃我々は「練られたジャズ」ゆえの「充実したジャズ」をこんなにもたくさん聴くことはなかったと思うんですね。

ま、コロムビア時代のマイルスの音楽も、テープ編集やギルのアレンジなどから別な意味での「練られたジャズ」だとは思いますけど……。

で、ブルーノートの、アンサンブル重視、アレンジにも重きを置く方針というのは、まさにファンキージャズにとってはプラスに働いたのではないかと思うのです。

凝りに凝った演奏……というわけでもないのですが、やっぱりスタジオで顔を合わせた面々が「せーの!」で出来る類の演奏ではないし、ビ・バップ期に比べると、メロディが極度に単純化されているテーマが多いぶん、そのぶん、ホーンなどのアレンジに凝ることで、演奏を立体的に構築することが出来る。

もちろん、ビッグバンドほどアレンジに凝らないにしても、やっぱりメンバーたちが発する楽器の一体感、緊密間というものがあるじゃない?

これって、回数重ねていかないと、なかなか同じ方向に意識が向かないということもあるわけですよ。

だから、ジャズマンの「演奏」を「作品」として送り出すためには、やはり凝縮された楽器の一体感は、無いよりはあった方がいい。

だから、リハーサルが重要ということなのでしょう。

あの名盤『バードランドの夜』だって、ライブ盤ではあるけれど、バンドとしての一体感が生まれるであろう日を狙って、つまりライブ出演2週間目に録音されたものだからね。

ブルーノートから、ファンキージャズの名盤が数多く発表され、そのどれもが高評価のものが多い背景には、ブルーノートならではの哲学、すなわち「リハせなあかん!」があったからこそ、なのでしょう。

もし、簡単なヘッドアレンジだけの演奏だったら、とても聴けたものに仕上がらなかったんじゃないか?と思えるような曲もありますからね。

たとえば、ドナルド・バードの《フュエゴ》なんて、まさにその典型で、滅茶苦茶シンプルなテーマゆえに、これを盛り上げるためにドラムが後ろでドカーンと爆発、ピアノの和音のパターンも演奏を盛り上げ、迫力を増すために、きっとドラムと同様、何度かの試行錯誤の上で決まったものだろうし、あるいはピアノに触発されてドラムのパターンが決まって、それとも、その逆だったりもするかもしれないけれども、とにもかくにも、少なくとも何回か音を出した上でコミュニケーションをはからないと出来上がらないアンサンブルであることは一聴瞭然。

だからこそ、「何度聴いても飽きない」充実した演奏ばかりがブルーノートに収められているのでしょう。

ま、そのことは当然といえば当然。

膨大な未発表ナンバーやお蔵入りしていたテープの「発掘作業」もなされていたほどのレーベルですから、それこそ、どんなに練った演奏をしたとしても、アルフレッド・ライオンのおメガネに適わなかった演奏は、発表されることもなかったわけで、逆に言えば発表された音源は、ライオンも認めた「ホンモノ」の演奏ばかりだということですから、「何度の鑑賞にも耐え得る」音楽が収録されているのがブルーノートなわけなのです。

もちろん、聴く人の好みや傾向というものもあるでしょうから、すべてのブルーノートの作品を好きだという人はマレでしょうけど(それ以前に、すべてのブルーノートの作品に耳を通した人って少ないと思うし)、やっぱり、ブルーノートの諸作を聴いて、どれもがピンとこないという人は、まだまだジャズの修行が足りないと思うわけです。

「修行」というと、なんだか仰々しいですが、要するにジャズのもっともオイシイ部分がギッシリと封印された音たちに、耳や感性のチューニングを合わせきれていない、ということでしょうね。

チューニングで思い出した。

話飛びますが「KY」、つまり「空気を読めない(人)」という言葉が、ずいぶん前に流行語になりましたが、まさにそういうことかも。

つまり、その場のコミュニティによって醸成された空気、雰囲気に、己の立ち居振る舞いをチューニングすることが出来ないこと(人)ですが、ドイツをはじめとする欧米における(フランスは除く)ローコンテクスト・コミュニケーション文化の対極にある、ハイコンテクスト・コミュニケーション文化の日本ならではの現象というか、こういう文化的土壌を持つ国民だからこその流行語なんでしょうね。

日本人は、その場、その場が持つ文脈を理解し、波風を立てることが嫌いな人が多いためか、比較的、その場の雰囲気にあわせることが得意な国民だと思うし、波風立てないためにも、それ相応の陰の努力も厭わないという人も比較的多いことからも、だからこそ「ジャズ入門」的な本が、いつの世もコンスタントに出版されているのでしょう。

つまり、需要があるってことです。

一生懸命、ジャズの文脈に耳のチューニングを合わせようと努力を重ねる人が、いつの時代も一定数はいるということですね。

だから、「ジャズは難解な音楽だから入門書が必要だ」という捉えかたも一理はあるんですが、それだけではないと思う。

「ジャズに耳を合わせようと努力をするマジメな人が多い」という捉えかたもあると思うんですよ。

だからこそ、「いーぐる」後藤さんの『ジャズ耳の鍛え方』や、『ジャズの巨人(JAZZ100年)』シリーズが売れているのでしょう。

ジャズ耳の鍛え方 (NTT出版ライブラリーレゾナント)
ジャズ耳の鍛え方

まずピアノ・トリオから始めよう:ワルツ・フォー・デビイ (JAZZ100年 4/8号)
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で、話を元に戻して、ブルーノートが持つ「ジャズのおいしさ」なんですが、ビ・バップの複雑でウネウネした旋律や、新主流派の曲、特にウェイン・ショーターが作り出す捉えどころとオチが分かりにくいナンバーが好みな私からしてみると、ファンキー・ジャズの類って、少々お子ちゃまっぽく感じるというか、鼻歌っぽいメロディの延長線上に感じる曲もあるんですよ。

でも、それはそれでイイんです。

だって、ファンキージャズなんだから。

ファンキージャズというのは、むしろそういうもの。

旋律のシンプルさや明快さを演奏者の力量やアレンジの力によって、「1」の旋律を「1.5」や「2」にヴァージョンアップさせてみせるのが、ジャズマンやプロデューサーの腕の見せ所なのです。

たとえば、レーベル違うけど、プレスティッジのマイルスのリーダー作『バグズ・グルーヴ』の後半の《ドキシー》。

ロリンズ作曲のこの曲こそ、典型的なファンキージャズ、というよりも、「ファンキーとは何ぞや?」という疑問に応えられるエッセンスが凝縮されていると思うんですよね。

バグス・グルーヴ
バグス・グルーヴ

たしか、ずいぶん昔に読んだ何かの本で大橋巨泉氏も「《ドキシー》こそファンキー」というようなことを書かれていた記憶があるんだけど、まさに、あの簡潔明瞭なメロディライン(さすがはロリンズ!)、少しスロー気味なテンポ設定が、シンプルなメロディに、ほんのりとした翳りをもたらしているし、サビの部分のホーンの一瞬のキメ、さらにピアノが、ここでは音数少ないけれども、ファンキージャズの権化ともいえるホレス・シルヴァーですからね、まさに黒人独特の「ファンキー」というもののエッセンスが凝縮されたナンバーだと思います。

シンプルで、キャッチーだけれども、それだけでは終わらない、ほんのりと微量なせつなさもまぶされている。

ま、トランペッターがマイルスということも大きいのでしょうけど。

このことからも、ファンキーを標榜するジャズって、アレンジ、もしくは、誰がどう演奏するのか、ってことも大きいんだと思うんです。

「誰がどう演奏するか」の部分の比重が大きいのは、あまりリハーサルには重点を置かないプレスティッジの《ドキシー》なのかもしれませんが、ブルーノートの場合は、もちろん「誰」の部分にも比重は置きつつも、アレンジ、アンサンブルのほうにも重点を置いていたんでしょうね。

先述したマイルスやロリンズのように突出したプレイヤーならともかく、彼らほどのプレゼンテーションの強さを持たないかもしれないが、よく聴くと味わいのあるプレイヤーだってゴロゴロいますから。

良い例がハンク・モブレーでしょうね。

あ、だから、ライオンはモブレーを多くのレコーディングに参加させたのか!

ウォルター・ビショップJr.の『デイヴィス・カップ』に参加しているアルトサックス奏者、ジャッキー・マクリーンなんかも、まさにモブレーと同様なんでしょうね。

もちろん、数音を聴けばマクリーンだと分かるほどの音色と個性を持っているサックスプレイヤーではあるけれども、やはりマイルス、ロリンズクラスと比較すると、音の絶対的な存在感からしてみれば、やはり少々小粒な印象ということは否めない(だからイイんだけど)。

このことについては、ドナルド・バードも同様だよね。

面白いのは、『デイヴィス・カップ』に収録されているナンバーの多くが、きちんと練られたアンサンブルだろうな、ということは如実に伝わってくるのだけれども、テーマのアンサンブルが終了した瞬間から、それぞれ、独自の持ち味のプレイに移行しているところ。

特にマクリーンにそれが顕著だよね。

テーマは、ブルーノート、もしくは、作曲者のウォルター・デイヴィスの世界なんだけれども、マクリーンのソロになったとたん、演奏がマクリーンの世界に変わってしまう。

ドラムスがアート・テイラーだし、ベースがサム・ジョーンズと、リズム隊が、ハードバップ好きにとっては「いつもの面子」による「いつものリズム」な上に、そこに「いつものマクリーン」が乗っかっているから、他のマクリーンの諸作をたっぷり聴いている人にとっては、ソロパートのみをフォーカスすれば、まるでマクリーンのアルバムの如しと感じるのは自然なことなのかもしれない。

ドナルド・バードは、さすがアレンジャーであり作曲者でもある彼のこと、テーマの意向を汲み取ったアドリブの展開をしておりますが。

ピアニストのリーダーアルバムながら、どうしても、フロントの管楽器のほうに耳が吸い寄せられてしまうのは、先ほどから何度も書いているアレンジとアンサンブルによることが大きいのでしょう。

正直な話、『デイヴィス・カップ』に収められている曲のテーマって、個人的に心惹かれるメロディってあんまり無いんですよ。

ホレス・シルヴァーの《ザ・プリーチャー》があまり好きじゃない理由と同じ理由、単なる私の好みの問題なのですが。

それでも、このアルバムの価値が私の中で下がることはないのは、やはりアレンジとアンサンブルだと思うんですよね。

よくもまぁ、こんなにシンプルかつ単純な鼻歌メロディをご立派に仕立てあげてくれました、という感心と、聴ける内容にショボいメロディ(失礼!)がヴァージョンアップされている驚き。

それは、ウォルター・デイヴィスのピアノのバッキングの功績も大きいのでしょう。

さすが、このアルバムのナンバーを全曲作曲しているだけのことはあり、ウォルター・デイヴィスのピアノは、曲のツボを熟知したバッキングの連続。

管楽器の背後で伴奏をつけるウォルターのピアノは、単調に感じることなく、心地よいメリハリを演奏に付与しています。

これがあるから、「テーマにダサメロ多くね?」なんて憎まれ口を叩きながらも、なんだかんだ言って私は『デイヴィス・カップ』を長年聴き続けているのでしょう。

記:2016/03/03

album data

DAVIS CUP (Blue Note)
- Walter Davis Jr.

1.'S Make It
2.Loodle-Lot
3.Sweetness
4.Rhumba Nhumba
5.Minor Mind
6.Millie's Delight

Walter Davis Jr. (p)
Donald Byrd (tp)
Jackie McLean (as)
Sam Jones (b)
Art Taylor (ds)

1959/08/02

追記

ちなみに、ジャケ写のウォルター・デイヴィスは見ようによっては小柄な人、あるいは、高校生ぐらいの若い年齢の人にも見えなくもありませんが、実際のウォルターは、けっこう大柄です。

デカっ!

記:2019/08/03

YouTube

このアルバムについて語った内容をYouTubeにアップしています。

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