「愛」と「正義」は鬱陶しい

「愛」は鬱陶しい

べつに私は反キリスト勢力でもなく、むしろ幼稚園はミッション系だったり、妹もミッション系の中学、高校を卒業したりしていることもあり、キリスト教の教えはある程度理解しているつもりだ。

だからといってキリスト教信者でもないけれど。

あ、あと念のためですが、何か特定の宗教や新興宗教などの団体に所属しているわけでもないのだけど。

ただ、キリスト教が唱える「愛」という言葉。
嫌いではないのだが、これには少々鬱陶しさを感じる。

なぜかというと、「愛」という言葉は、個人の欲求、感情から発せられる言葉だと考えるからで、たとえば「あなたを愛している」というセリフは、その言葉を発した人物個人の欲求だよね?

まあ一人の相手に対してならそれほど気にする必要はないのかもしれないが、それがコミュニティや国家単位になるとどういうことになるのかというと、それは歴史を紐解けばすぐに分かる。

「汝隣人を愛せよ」を唱えつつ、「隣国」を侵略、殺戮を繰り返してきた国々が信仰していた宗教は何だっけ?

それと、「愛」という言葉は、どうも文脈的に交換条件に用いられることが多いような気がするのだ。

「こんなに愛しているのに、どうして振り向いてくれないのだ」
「私のことを愛しているのなら、あれをして、これを買って」

愛という貨幣に対して等価交換を求めているかのようなセリフではないだろうか?

「正義」も鬱陶しい

それと同様、正義という言葉にも、一抹のうさん臭さを感じる。

いうまでもなく正義というものは時代や地域の産物であり、絶対的かつ普遍的なものではない。

また、同時代、同一地域であっても、個々の人物によっても尺度が異なるだろう。

だから私は「正義」を振りかざす人間は嫌いだし、振りかざせば振りかざすほど争いと憎しみの種を蒔き散らしているようにも見えるので、それは愚かな行為だとすら思っている。

「先生の言うことは正しいのだ、お前は間違っている」

「お母さん、何か間違ったこと言ってる?」

このような言葉にイラっとこない子どもなどいないだろう。

正義という大前提があるから反論すらできない。
そう、反論を封じ込め、異なる主張を受け入れない言葉(考え)なのだ。

個人の間で使われるのならまだいい。

戦争、紛争など、大規模な国家間の争いはどうだろう?

両陣営(両国)ともに、「正義」を唱えていないだろうか?

この言葉がバックボーンにあるからこそ、それに反した相手に対する憎しみが生まれる。ねじ伏せようとする、支配しようとする、コントロールしようとする。

だから私は特撮ヒーローが使う「正義」は好きだし、ラヴソングの歌詞で使用される愛という言葉には何の抵抗感もないのだが(いずれもフィクションの中での言葉だし)、大の大人が正義という言葉を振りかざす姿勢、マインドには幼稚さと傲慢を感じざるを得ないのだ。

いずれにしても、「愛」も「正義」も鬱陶しい。
いや、正確にはこれらの言葉を振りかざす人間、団体、集団が鬱陶しい。

言葉そのものに罪はないが、これらの言葉から派生した様々な想い、行動、(多くの場合は)ネガティブな感情や惨状は見るに堪えない。

記:1999/03/13

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