雑想 2006年3月

      2022/11/06

少しだけ、ドラムが上達しているじゃないの!

なんと、先日ベースのトラを頼まれたロッケン・ロール・バンドのライブですが、入院していたベーシストが復活!とのことなので、今回の話はナシにしてください、だそうです。

あわわ、せっかく気持ちがロッケン・モードになってきたのに、残念。
とはいえ、正規のメンバーが復活して良かったですよね。

先日、息子と、近所のロックバーへ行きました。

カウンターでウーロン茶を飲むのもそこそこ、ドラムセットに走ってゆき、8ビートの練習。目が滅茶苦茶真剣です。

あれ?
一週間前よりもだいぶ上達している。

一週間前は、1小節も満足に叩けなかったのが、いまでは4小節ぐらいはなんとかリズムキープしている。
ま、5小節目あたりからは、リズムがヨレヨレになっちゃんだけど。
それに、バスドラ踏んでないんだけど(笑)。

でも、ほんの少しだけれども進歩していることは確実で、これをあと1年とか2年を繰り返せば、なんとか真っ当な8ビートを叩けるようになるんじゃないかな? などと親ばかの私は期待しております。

そうすれば、親子リズムセクションも夢じゃないですね。

ガーン! かけつけたら、店が閉まっていた。

昨日も休日出勤、徹夜覚悟で、わりかしノンビリと編集部で仕事をしていました。

宵の口に、いきつけの音楽あバーから電話が。
「ジャズギターのうまい飲み屋のマスターが来たから、よかったら来てよ」と。
えーん、行きたいよー、行けないよー。
「いけません、いけないです、ごめんなさい」と伝えて電話を切りました。

でも、やっぱりベースが弾きたくなったので、ガーッと仕事を片付け、終電に潜り込みました。途中駅で乗り換えるのも面倒なので、乗り換え駅で降りたらタクシーを拾って一路、店まで飛ばしてもらいます。

時計を見ると12時20分。よっしゃ、まだ閉店時間じゃないぜ!(閉店時間は通常午前1時)

ドアのノブに手をかけると、ガチャガチャ、あれ、閉まってる。きっと、翌日は月曜日ということで、お客さん全員帰っちゃったから早めに閉店したものと思われ、いやはや、残念でありました。

帰宅後、起きていた息子と「マカロニほうれん荘」ごっこをして遊び、私もすぐに床にはいりました。

暗い日曜日 阿部薫

音から感じられるニュアンスはまさにタイトル通りの陰鬱さ。

殺気立った70年代・東京の空気がひりひりと迫ってくるような……。

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動く阿部薫

You Tubeを徘徊していたら、阿部薫の映像を見つけました。

私は『エンドレス・ワルツ』などで脚光を浴びる前の一時期、阿部薫にハマっていたこともあり、けっこうアルバムを集めては、聴いて、たまに「おりゃ~!」と発狂していました(笑)。

でも、いつも音源聴くたびに「生演奏を見ていない俺は、きっと半分も“世界”を感じていないんだろうな」というストレスも多少感じていたこともまた事実。

しかし、この映像を見る限りでは、想像していた“阿部姿”とほぼ一致したいたので、長年喉の奥につかえていた小骨が取れた気分です。

1977年9月24日、福島の「パスタン」での映像だそうですが、如何でしょうか?

生でじっくり見てい、いや感じたい音だとは思いませんか?

私は阿部薫の最高傑作は『彗星パルティータ』だと思っていますが、

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上のライブ映像を見ると、東北大学の講堂で行われた、佐藤康和(現:YAS-KAZ)とのデュオ『アカシアの雨がやむとき』のうらぶれた感じもいいなと思い、しばらくぶりに聴いてみようかと思いました。

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ビル・エヴァンスについていくつか

生い立ち

ビル・エヴァンス(本名:ウイリアム・ジョン・エヴァンス)は、1929年8月16日、木曜日、午前4時、ニュージャージー州ブレインフィールドに生まれた。父親ハリーはウェールズ系、母親マリー(もしくはメアリー)はロシア系、そしてエヴァンスには、2歳年上の兄ハリーがいた。

エヴァンスがニューオリンズで演奏した場所に設置されていたピアノは、ほとんどの場合、音程が♭気味だった。クラブや演奏場所を提供する主催者はピアノの調律など眼中になく、しかもニューオリンズの気候は蒸し暑く、おまけに当時のほとんどの店には冷房さえなかった。

おそらくエヴァンスは、こうした悪条件による環境のもとで演奏をくり返すことによって、のちに開花する独自の個性やスタイルにつながるヒントとアイデアを得た。とくに独特のコード進行やハーモニーに対する、あの“奇妙に変形した”スタイルと感覚がそれにうかがわれる。

ビル・エヴァンスほど親族や友人にちなんだ曲を多く書き、また彼ら彼女たちの名曲を曲名に引用したミュージシャンもそうはいないことに気づかされる。たとえば、エヴァンスの作品中もっとも有名な曲である《ワルツ・フォー・デビー》は、兄ハリーの娘である出ビーを主人公として生まれた。《ワン・フォー・ヘレン》や《ソング・フォー・ヘレン》は、1962年以来、エヴァンスが他界するまでマネージャー兼プロデューサーをつとめたヘレン・キーンに感謝の意を込めて書かれた。エヴァンスの熱烈はファンであり、手編みのセーターなど多くの“ニット製”のプレゼントを贈ってくれたメアリー・フランクセンなる女性には、お礼として《ニット・フォー・メアリー・F》という曲を贈っている。

(中山康樹『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事情』より)

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