奄美大島音楽事情
2015/07/09
奄美大島のCDショップSounds Pal(サウンズ・パル)では、『メルス・ニュー・ジャズ・フェスティバル'80/高柳昌行とニュー・ディレクション・ユニット』(TBMレコード)が、10枚も売れたという(ちなみに11枚目の購買者は、私)。
また、ザンビアの葬式の時に叩かれる太鼓の演奏を記録したCDは20枚近くも売れているという。
これらのアルバムの売れ方を考えるだけでも、それだけ奄美大島の音楽ファンの嗜好はマニアックで濃いと考えることも出来るわけだ。
奄美大島内でCDを販売しているショップは3軒ある。
ティダモールという名瀬市内中央のアーケード商店街の中にある演歌のカセットテープを中心とした品揃えのレコード店と、最近新しく出来たというTSUTAYA、それにSounds Pal(サウンズパル)だ。
演歌中心の店や、売れ筋の品揃えが中心のTSUTAYAで高柳昌行やザンビアの民俗音楽のCDが売れているとは考えがたく、やはり島内には、Sounds Palが販売した10枚や20枚が出回っていると考えたほうが自然だ。
サウンズパル店主・高良一氏のお話によると、“ジャズ”、“フリージャズ”というカテゴリーとしての捉え方ではなく、“おもしろい音楽”として、“フリージャズとカテゴライズされている音楽”に関心を示す人が多く、特にサン・ラ、ファラオ・サンダース、高柳昌行、アフリカの民俗音楽のCDがコンスタントに売れ続けているのだという。
男性だけではなく、女性も買ってゆくというのだから面白い。
もちろん、奄美大島の人々が、このような嗜好を最初から持っているのだとは考えにくいので、これはひとえにSounds Palの販促努力の賜物なのだと私は思っている。
なにしろ、店内のCD一枚一枚に張られた手書きのPOPの量の多いこと、多いこと。
良い音楽を一枚でも多く、奄美大島の音楽好きと分かち合いたいという店側の熱意が、これでもかというぐらいに伝わってくるのだ。
おそらく、浜崎や宇多田などの流行モノの音に飽きた若者たちが、新しい“耳の刺激”を求めてSounds Palを訪ね、店内にディスプレイされているオススメCDを手に取り、熱心に手書きのPOPを読むのだと思う。
サウンズパルの品揃えの特徴は、もちろん流行りのものや、売れ筋のも揃えてはいるが、売れ筋ではないが良質な音楽も、流行モノの音楽と“等価”として扱っているところにあると思う。
この品揃えのセンスと、自らの店の位置づけ方は、忌野清志郎をして「日本一ロックな本屋」と言わしめた高円寺文庫センターのそれに近く、若者の旺盛な好奇心を刺激してやまない品揃えと、そこから発せられる独特な雰囲気が地元の若者を引きつける大きな要因となっているのだろう。
なにせ、リー・コニッツの『無伴奏ソロライブ・イン・横浜』が面出しでジャズコーナーの一番目立つコーナーに面陳されているんだぜぃ。
店主の高良一氏は、ちょっと照れながら「島の若者たちの音楽感覚を育てている、なんていうとちょっとおこがましいかもしれないけど…」と、仰っていたが、いやいや、その通りなんじゃないかと思う。
ジャズ喫茶育ちの優れた評論家やクリエイター、ディレクター、そしてミュージシャンや俳優、小説家が数多くいるのと同じように、良いレコード店に集う客だって、店員とのコミュニケーションを通じて、感性が育まれるのだ。
というのも、ジャズ喫茶でかかる未知の音源も、客の好みを熟知しているレコードショップの店員も、自分の“性感帯”を開発してくれることがあるからだ。
“性感帯”なんていうと誤解を招きそうだが、要するに、“まさか自分では感じるとは思わなかった思いもよらぬ急所やツボ”を衝いてくれるということだ。
我々は、自分が思っている以上に、“自分の好みだと思っているポイント”に固まりやすい。自分では冒険したり変化をつけているつもりでも、傍からみるとミクロの差だったりすることは、よくあること。
人それぞれ傾向というものがあるし、“私はこのへんが好みだ”というセルフ・イメージもある。
さらには、無駄な投資はしたくないという心理も働くので、“似たような傾向のポイントに固まること”は仕方のないことだと思う。
そして、これは別段音楽に限らず、ファッションや読書傾向や趣味全般にも当て嵌まることではあるのだが、対象を「ジャズ」にして話を進めると、たとえば、ピアノトリオが好きな人は次に買うCDもピアノトリオなことが多いし(ホーンを敬遠してという人が多い)、これは私にも言えることだが、4ビートが好きな人は、4ビートのアルバムばかりを買って安心するような傾向がある。
もちろん、趣味の領域なんだから、このことに対して良いとか悪いとか、第三者がとやかく言う問題ではない。
しかし、思いもよらぬ角度から、思いもよらぬアルバムを聴かされて、「お、こういうタイプも意外とオレの好みかも」と、今まで自覚していなかった新たな自分の趣味に気付くことだってあるはず。
こういうことを気付かせてくれる“場”こそが、ジャズ喫茶やCDショップなのだ。
「あなたの好みは分かりましたが、もしかしたら、こういう世界もじつは好きなんじゃないんですか?」と未知の世界を案内する“ナヴィゲーター役”や“場”を身近に持つことの最大のメリットは、まさに“新しい性感帯(=耳と感性のツボ)の開発”にあるのだ。
エネルギーはあるが、そのエネルギーの矛先をどこに向けて良いのか分からない人に対して「こういう面白いものもあるんだよ」と、未知の世界を指し示すこと。
情熱はあるんだけど、自分の思い込みの中での狭い世界しか知らないことの多い若者に「こういう世界もあるんだよ」と、世界の広さを見せてあげること。
未知なものへの好奇心はあるが、いかんせん経済力が不足しがちな若者に、「今月はこの一枚を聴き潰して過ごそう」と決心させる“とっておきの1枚”を紹介してあげたり、“未来の愛聴盤”を見つけるヒントを示してあげること。
このような“場”や“人”を持った人は幸せだ。
ジャズ喫茶や、サウンズパルのような「場」や、ジャズ喫茶のマスターやサウンズパルの店員といった「人」は、新しい情報や好奇心が旺盛な若者に、決して「これを聴け!」と押し付けるわけではない。
ただ、「こういう面白いものもありますよ」と目の前に彼らの知らない世界を広げてみせているだけだ。
だから、もちろん、最後に選択するのは、購買者自身。
しかし、情報や選択肢を与えられないまま、本当に欲しいのか欲しくないのかを考えることなく、ただ漠然とお金を払うことよりも(これを“浪費”という)、与えられた情報と選択肢の中から、自らの頭を使って、取捨選択と吟味を繰り返した末に選び出すものとでは、愛着も喜びもまったく違うものとなるはずだ。
好奇心の旺盛な若者が欠けがちなもの、そして切実に必要なものは、情報だ(これは全然恥ずべきことではない)。そして、彼らに情報を与え、考え、選ばせるという影のナビゲート役の存在は重要だし、ないよりは、あったほうが良いにきまっている。
よくバッハやモーツアルトが引き合いに出され、「天才は3代で作られる」と言われている。
遺伝の話ではない。環境の話のたとえだ。
つまり身の周りに音楽に関心のある人が多ければ多いほど、音楽の才能のある人間が発見されやすいし、育てられやすいし、輩出されやすいということ(お爺ちゃんの代から音楽に関心があれば、3代目が育つ環境は、音楽に関心のある人間の多い環境になっているだろうという考えから)。
この喩えからではないが、音楽に関心のある人間の多い地域であればあるほど、優れた音楽家が生まれる環境になる可能性が高いということにはならないか?
わずか数日の滞在だったため、あまり確証を持っていえることではないが、少なくとも私が今回の奄美大島旅行で感じた限りでは、奄美大島内での人々の音楽に対しての関心度は非常に高いのではないかと感じた。
まず、私の宿泊したホテルの周囲だけでもライブハウスや音楽の生演奏をやっている店が少なくとも5軒以上はあった。それも半径500メートルにも満たない範囲にだ。
また、地元の小学校が全国のブラバンコンテストの出場が決まっているという。
そして、先述したとおり、独自の情報発信源であるショップ、Sounds Palの存在。
さらには、Sounds Palの店員、高良俊礼氏が定期的に主催している音楽イベントや、ジャンルを超えたお勧めアルバムの紹介メルマガ。
東京のような大都市では、ライブハウスの多さも、マニアックな店の存在も、音楽のイベントも、どれもがアタリマエのことなのかもしれないが、島の規模や人口からして考えると、これはやはり普通ではないほどの、音楽関心度の高さだと思う。
良い音楽家が育つには、周囲の人々の音楽受信感度が高ければ高いほうが良いし、的確な批評も必要だ。そしてなにより“音楽が好き”な人が多くなければ話にならない。
色々と書いてきたが、奄美にはこのような条件が揃っていると思う。なにより、先述した諸条件に加え、奄美には豊かな自然がある。
素晴らしい自然環境と、音楽関心度の高い土地。
元ちとせが奄美出身だということは有名だが、近い将来、彼女に続く大物アーティストが奄美から出てくる可能性は大いに考えられる。
いや、すでにもう新しい音楽が、胎動しているのかもしれない。
音楽にアンテナを張り巡らせている人がいたら、先物買いは、奄美のミュージシャンかもしれないよ!?
記:2003/09/24
追記
※現在の高円寺文庫センターは、ロックな店長が辞めてしまい、非常に残念なことに、「日本一ロックな本屋」じゃなくなってしまっています。