ブルトン・アプレゲール・テケレッツ「宇宙・ジャズ」live in 六本木Back Stage 1999/12/26

      2020/03/13

boke

「亡念界」という名のオフ会をバックステージを借し切りにして12月26日に行った。

ただ単にダラダラと5時間近くの時間を過ごすのも難なので、「ブルトン・アプレゲール・テケレッツ」のライブを冒頭に行うことにした。

ブルトン・アプレゲール・テケレッツとは、私とジョニーが核となるユニットで、やっている音楽の内容は正直自分でも良く分からない。

結成してかれこれ4~5年以上はたつと思うが、草創期はベース数台で編成、後にオリジナルの打ち込み、現在では打ち合わせ全く無しの即興演奏っぽいことをやっている。パートは曲やライブの主旨によっても変わるが、私はシンセかピアノかベース、ジョニーがシーケンサーかヴォーカルかベースを弾く。

今回のテーマは「宇宙の音」。

確か今年の夏にも同じフォーマットでライブをやった記憶があるが、要するにジョニーが我々が「宇宙の音」と呼んでいるチープなアナログっぽい音が出るシーケンサーのような機械を操作し、私がベースでジョニーの機械が発するサウンドに色付けをする演奏だ。

私はベースライン以外の旋律をベースで弾く際は、「Big- Muff」というロシア製のエフェクターをかまして、ベースの低音をギターのように歪ませて弾くのが好きだが、今回は「COROSION」という楽器屋の強い勧めで購入したエフェクターをかましてみた。

このエフェクターは綺麗に歪む。

「Big- Muff」のようにエグく歪まない。だから、サウンド的には物足りなさも感じるが、なにしろコンパクトで持ち運びが便利な上に、今回は電子音に合わせてベースを弾くわけだから、綺麗に歪んだ音でベースを奏でるのも悪くはなかろうと思って今回の装備は「COROSSION」にしてみた。

これにアナログ・ディレイをかます。

私はライブでは通常フレットレス・ベースを弾いているが、フレットレス特有の甘い音色には、デジタル・ディレイよりも暖かい感じのするアナログ・ディレイによるエフェクトがよくマッチする。

この2本のエフェクターをベースに繋ぎ、ライブに臨んだ。

ライブ始まりのMCはジョニーだ。

えー、みなさんこんにちわ。ブルトン・アプレゲール・テケレッツ久々のライブです。

今回やるのは「宇宙」と「ジャズ」です。

「宇宙」と「ジャズ」……

なんというか、やる気がないというか、安直なネーミングだなあ。

しかし、打ち合わせの時に「今回は宇宙とジャズの二つをやればいいんじゃない?」と言ったのは私なので、まあ私から言われた通りのことをそのままジョニーが言っただけのことなのだが。

考えようによっては、サン・ラ的でなくもないので、それもまたそれで良し。

一見投げやりなMCだが、その実ジョニーなりのしたたかな計算があるのだろう。

投げやり風でいて、実はしたたかな毒を含む、これはブルトン・アプレゲール・テケレッツの一貫した芸風でもある。

さて、そろそろ演奏開始の時間だ。

発した瞬間すぐに消えてゆく電子音をジョニーが発する。

音色以前の音だ。発信音に近い音。

ピッピッピッ

断続的に、そして不規則に奏でられるこのサウンドは、60年代に描かれた未来像を彷佛とさせる。巨大なアナログ機械に囲まれた曇り空の未来。

描かれるコンピュータが巨大なテープレコーダーと冷蔵庫の塊。火星にはロビン君のようなロボットがいる。

いや、タコのような宇宙人か?

プップップッ

ジョニーは2台のエフェクターのつまみを巧みに操作させつつ、まだまだ本題に入るまいとシーケンサーを猫背姿で懸命に抑制している。

ここで、ベースが前面にいきなりシャシャリ出るのはヤボだ。

こちらも様子を伺おう。

ただし、全くベースの音を発音させるのはまだ勿体無い。

弦をブンと弾いた瞬間に「音楽」になってしまう恐怖感がつきまとった。

仕方がない。

足下の「COROSSION」のフットスイッチを入れる。

私はベースアンプの上に座っているので、アンプとベース本体が近すぎる。

だから当然ハウリングを起こす。

ホワーン、キィーン…

耳障りなハウリング音。

すぐさま、フットスイッチをオフにして、ハウリングを止める。

そして、またフットスイッチをオンに。

ブピーヒャ-、プツッ

これをしばらく続けた。

「COROSSION」のフットスイッチは、足を軽く触れただけでon/offの切り替えが出来るので、レスポンスが早い。
音楽以前の音、しかもチープな発信音だけが断続的に鳴っては止むという状態がしばらく続いた。

ジョニーがエフェクターを操作しはじめた。

恐らくディレイ系統のエフェクターだろう。

「D」の電子音がぷっぷっぷっぷと鳴りはじめた。

音階が判別出来る音色に切り替わったということは、こちらもほんの少しだけ音楽的な対応をしたほうが良いだろう。

ただし、いまだ「イキそうでイカない」つんのめった規則性のない音の羅列だ。

いきなり旋律にはいるのもどうかと思われたので、7度上の音、「C#」をハイポジションで鳴らした。

合っているような、合っていないような響き。

もちろん私とジョニーの心の中では「この状態が最も適切な状態」なのだが、客席から見れば未だ事態を把握し難い状況だったに違いない。

ジョニーは少しずつ発信する音のバリエーションを広げてきた。局面に拡がりが出始めてきた。

しかし、一気に突っ込むのはまだまだ勿体無い。もう少し焦らしたい。

不規則なフレーズを脈絡なく、そしてジョニーの電子音に付かず離れずの状態で弾いた。

「COROSSION」は踏んだり踏まなかったり。歪んだ音で弾くときは、あくまで効果音として。フレーズを弾いてしまうとギターになってしまう。

弾きまくるタイミングはいつか?

いいや、別に弾きまくらなくてもいいのだが。

ただ、せっかくベースを弾いているのだ。一つの演奏の中のどこかでベースを思いっきり弾きまくる局面が欲しい。盛り上がりが欲しい。

「華」が欲しい。

おとしまえをつけたい。

……と考えるのは、日本人特有の貧乏症か。

以前、山下洋輔が書いた何かのエッセイで読んだことがある。

坂田明と森山威雄とのトリオを組んでいた時に、山下洋輔トリオは何度かヨーロッパのジャズフェスティバルをツアーをして回っている。

ヨーロッパはアメリカと違って文化的背景と基盤のしっかりしている国々が多いためか、音楽や芸術全般に接する人々の鑑賞能力が一般的に高い。

60年代以降の名だたるジャズミュージシャンが食っていけない祖国のアメリカを捨て、ヨーロッパ、主にフランスにジャズ・イグザイルとして活動の拠を移した事実から見てもそれは分かるだろう。

そんなヨーロッパ諸国の国々の人々は当然フリージャズのような演奏形態に対しても寛容だし、楽しんで鑑賞できるだけのゆとりと心の余裕がある。

山下トリオは、ピアノの弦を切る、ドラムのスティックを折るシンバルを割る、サックスのマウスピースを飲み込むなど、それこそ暴風雨のような演奏を繰り広げ、向こうのマスコミに「カミカゼトリオ」と評されるほどだった。

当然、各地の会場では大絶賛の嵐、凄いバンドが日本からやってきたと賞賛されるのだが、山下トリオの感じた現地での違和感というものもあって、現地のフリージャズというのは山下トリオの演奏のような「やるからには最後まで熱演を繰り広げ、演奏に何らかのオトシマエをつけねばならない」というある種の脅迫神経症的な演奏に対する考えが全く無いそうなのだ。

ステージ上で「いくぞー、せーの!!」と演奏を開始するのではなく、それこそ「フリー」ジャズなのだから、始まることなしに何となく演奏が始まり、終わることなしに何となく演奏が終わる、そしてこの樣を観衆がリラックスして楽しむという構図なのだそうだ。恐るべしヨーロッパの観衆の懐の深さ。

私の演奏に臨む態度もどちらかというと、山下トリオに近い。

やるからには、何らかの見せ場なりクライマックスを設けないと、観衆以前に自分自身が納得出来ない。せっかく来てくれたお客さんに見せ場の一つや二つを設けてあげないと、申し訳ない。

それ以前に「なんだ、大したことないのね」と思われるのが一番怖い。

だから様子を伺いながら恐る恐るベースの音を鳴らしている。

盛り上がりそうな瞬間を探している。

探りを入れながらベースを弾いている。

「だるまさんが転んだ」よろしく、気付かれないように少しずつ音数を増やしていこうとしている。

いかん、いかん。

別に盛り上がらないままそのまま終わってもいいのではないか?という考えが頭をよぎる。

ジョニーの出す音に耳を澄ましても、一向に盛り上がる気配がない。淡々と出てきた音に聴きいっている。聴衆に媚びようなどというへんな色気が微塵も感じられない。

うーむ、もう少し淡々とジョニーに付き合うか。
ここでもし俺が局面を変えればジョニーも付いてきてくれるかな?と思い、両方のエフェクターのスイッチをオンにして、長いフレーズを弾いてみた。

ほんの少しボリュームをあげることも忘れずに。

しかし、相変わらずジョニーは淡々と機械の操作を続けている。

少しずつ音色を変えているのは分かるし、発信音のリピートする周期も意図的に少しずつズラシていることは分かる。しかし、トータルな意味でのサウンドのカラーは全く変わっていない。

これから何かが起こるぞ、と予感させるだけの長い長いプロローグ状態にとどまっている。

ぷっぷっぷっぷっぷ…

ぺぺぺぺぺ

ぺっぺっぺっぺっぺ

うぃーおん、うぃーおん

うーん、これ以上どう合わすというのだ。

手持ちのネタ(ストックフレーズ)は無いわけではない。

それよりも、ジョニーが発する音に相応しい、半ば非音楽的なフレーズを捻り出すのが難しくなってきた。同じことの繰り返しはすぐに聴衆にバレてしまう。

ディレイ・タイムを延ばしてみたり、リピート回数を増やしたり減らしたり、歪みの度合いを変えてみたり、高音域をカットしてみたりと、もはやフレーズ云々よりもエフェクターのツマミを回して音色に変化をつけることしか道が残っていないような気がしてきたところで、ジョニーの機械音がぱたりと止み、私も同じタイミングで偶然に音を出すのを止めた。

3秒ほどの沈黙。ジョニーと目があう。

終わりにしましょう、そうしましょう。

0.3秒で目の会話を終え、「宇宙の音」の演奏は終わった。

今回は盛り上がりというか、起承転結で言えば「起」の部分がずっと続いて終わってしまった感がある。私はアンビエントっぽいものや環境音楽、さらにはスティーブ・ライヒのような現代音楽などを好んで聴く人間なので、この手の「アンチ・クライマックス」的な演奏は聴いていて苦にはならないのだが、客席の皆さんにはどう感じられたことだろうか。

分かりやすい起承転結を設けなければ聴衆が可哀想だ、ポップミュージックのような分かりやすい「物語」と「メリハリ」、そして構成とストーリーを打ち出さなければ聴いていてもつまらないと思われるのでは?

いつもこのことばかりを考えて即興演奏に臨んでいる私。

そして、共演者がいつまでたっても煮え切らないと「えーい!」とばかりに前面に出て意地でも盛り上がりを作ろうとしてきた私にとって、今回のような「非盛り上がり」演奏は始めての経験といっても良いだろう。

演奏当事者の個人的な手応えとしては「悪くなかった」と思う。

今後は、「盛り上がるも盛り上がらないも気分次第さ」ぐらいの気持ちで即興に臨んでもいいのかな?とも思えてきた。

二曲目の「ジャズ」。

弾いていたベースをジョニーに手渡し、私はピアノを弾いた。いつものクリシェと展開。可も無く不可もなく。

相変わらずジョニーと私の息はピッタリで、演奏中にアイコンタクトを一切取らなくとも、相手の疲れ方やリズムの変わるタイミングが分かってしまう。

ダテに何年も一緒にやっていない。

4ビートになったり変拍子になったり、各人のソロになったり、ワルツになったりマーチになったり、不定形ピートになったりと、どちらが仕掛けるわけではなしに、自然に、そして目まぐるしくリズムが変わっていき、やはりこの演奏も私が鍵盤から手を話した瞬間に、ジョニーも弦から手を放し、全くの偶然があたかも予定調和かのごとく演奏が終わった。

後は楽しい楽しい「亡念界」。

主に椎名林檎のベースを弾いたりして楽しかったです。

記:2000/01/01(from「ベース馬鹿見参!」)

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