『飯と乙女』鑑賞記

      2019/08/25

飯と乙女 [DVD]

咀嚼SE

ポリポリ、カリカリ、ぬちゃぬちゃ、バリバリ……。

とにかく、普通の映画やドラマ以上に、食べ物が口の中で咀嚼されている音が大きめに鳴り響く。

そして、食事をする登場人物の多くが、それほど美味しそうに食事をしていない。
楽しむというよりは、むしろ排泄行為のように、「しないわけにはいかないから仕方なく」という雰囲気が漂っている。

煎餅を食いまくる女、空の弁当箱をエア弁当食いをする男、人前でモノを食べられない上に人が作ったものを食べられない男、食っては吐く女などなど、傍から見れば普通の一般的な社会人であるにもかかわらず、少しだけ「食」に関しては普通っぽくな何人かの人間が取り上げられている。

登場する食べ物や食材は物体的というか標本的ゆえ、美味しそうには見えないし、繰り返すが、食事中の人の多くがつまらなそうだ。逆に、いかにグルメ番組やバラエティ番組のオーバーリアクションが嘘臭いのかが分かるほど、事務的、義務的、つまらなそう。

しかし、考えてみれば、自分だって吉野家や丸亀製麺のような「食料摂取中心のチェーン店」のカウンターでは同じ表情、同じ仕草で食事をしているんだなということに気が付く。

なぜに「乙女」?

スポットを当てられている人物は、必ずしも女性ではない。
また、取り上げられる女性だって皆「処女」ではないはず。

昔、高校の古文の時間に習ったことの受け売りだけど、奈良時代には「オトメ」は「不通女」と書き、要するに「貫通していない(不通)女」、すなわち処女であるということから始まり、現在では「乙女」と書くわけだけれども、だとすると、タイトルの『飯と乙女』の「乙女」は一体何を意味するのだろうか?

……と思いながら、物語の中盤を再生してみて気が付いた。
一回目の鑑賞時は、食べる音のインパクトで音楽のほうまでは気が回らなかったのだけれども、うっすらとバックに流れているのはシューベルトではないか。

最初は喫茶店のBGM程度にしか感じなかったけれども、よく聴くと、このシューベルトの曲は《死と乙女》だ。
なるほどね、「(め)しと乙女」。
このシューベルトのタイトルにひっかけていたわけだ。

クラシックには詳しくないんだけど、家にあったのはコレ。

久々に聴いたら、心洗われました。
もしかしたら、音楽の効果が大きいのかも、不愉快な気分になりにくいのは。

絶妙な寸止め感

さてこの映画、「食」に縛られた人間の「業」のようなものを淡々とした描写から浮き彫りにしていこうという試みであるとするならば、もっとグロテスクな描写や不快な描写があっても良いものなのに、淡々とした描写のたたみ掛けが功を奏しているのか、不快な気持ちにならないところが、この映画の寸止め加減の絶妙なところ。

ふつう、噛む音や唾液でクチャクチャしている音がクリアに通常よりボリューム大き目に鳴り響き、さらにおいしそうな顔ひとつせずに食べている人たちが映し出されれば、不愉快な気持ちになりそうなものなのだが、面白いことにそれがない。

あともう1ミリリアリティの世界に踏み込めば、鑑賞者のコンフォートゾーンが決壊して、「不愉快じゃっ!」となりそうなところを微妙な匙加減で、寸止めされているところが興味深い。

ひょっとしたら、鑑賞者の愉快・不愉快のハザマを揺れ動く感性の振り子のふり幅を試す試みなのかも?とすら思ってしまうほど、絶妙なSEとアングル、そして決してオーバーアクションに陥らない俳優たちの抑制された言動と立ち居振る舞いは、これはこれで、現代の日本の平凡な人たちの生活風景を「食」を通して映像で切り取ったひとつのサンプルのようなものなのかもしれないね。

デカくてマズい、いなり寿司

とりあえず、お酢がキツめな酢飯を、煮詰まった醤油に漬かった油揚げでくるんだビッグサイズのいなり寿司を口の中に頬張りたい気分にさせてくれる映画ではあった。
実際は準備が面倒くさそうだからやらないと思うけど……。

というより、酢が効き過ぎたデカいお稲荷さんって、皆さん、一回くらいは食べた記憶がありません?
私の場合も、田舎で食べたのか、友達の家で食べたのか、よく覚えていないのだけれども、たしかに人生の中で1回ならず、2度や3度は、大味かつビッグサイズのいなり寿司を食べた記憶がある。

そして、多くの人の記憶に漠然と残っている(私だけかもしれないが)デカくて大雑把ないなり寿司をエピソードに挿入した監督のセンスがあるからこそ、この映画を単に頭デッカチな実験作風に陥っていない理由なのだと思う。

カツサンドが人気メニューな、どちらかというと洋食中心の飲食店の冷蔵庫に大量の油揚げがあるのってヘンじゃないか?という突っ込みがくることは当然想定されていたとは思うが、それでもなお「マズくて雑ないなり寿司」を持ってきたあたりのコダワリと妙なリアリティが、この映画を自己満B級作品に陥らせることなく、ギリギリのところで寸止めているのだ。

記:2018/03/14

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