セルジュ・ゲンスブール賛歌
もしプロデューサーになれるとしたら、いや、プロデュースの才能があれば、つんくや小室哲哉のようなタイプにはなりたくない。
セルジュ・ゲンスブールのようなオヤジになりたい。
ゲンスプールのような色気のある、いや、「エロ気」をムンムンと発散している濃いオヤジになりたい。
中途半端な10人をまとめてプロデュースするよりは、たった一人でもジェーン・バーキンのような“とびきり”をきめ細かく調教したい(もっとも、ゲンスブールが“調教”したのはバーキンだけではないが)。
あ、ちなみに、このCD、私の愛聴盤です。
昔、河村隆一をギャグの対象として「ルナ・シー」というバンドを追いかけ続けていた女の子がいた。
まだメジャーになる前の「黒衣装限定ライブ」なんぞにも行っていたらしいので、相当に年季のはいった熱心なファン(?)のようだが、彼女の話によると、件の彼は「キミの瞳の中に映ったボクが好きだ」みたいなことを言ったとか言わないとか。
真偽のほどは分からぬが、もしそう言っていたのだとしたら、それは、ゲンスブールの、
「俺を見つめるキミの瞳には知性が宿っているぜ(なぜなら俺が映っているから)」
や、「ジェーンのどこが好きかって?彼女の心の中にいる私だよ」に通ずるところがあるな、と思った。
あるいは単にゲンスブールのパクリなのかもしれないが。
セルジュ・ゲンスブールは良い。
シルヴィー・バルタンに惚れて、彼女のために曲を作ったが突っ返された彼。そのボツになった曲をジェーン・バーキンに「君のために作った曲だよ」と平然と捧げられる神経が素晴らしい。
「ジュ・テーム(愛してるわ)」に「モワ・ノン・プリュ(オレ?さあね)」と返すニヒルさが素晴らしい。
“「なんにもならない」が口癖の、ひどい理想主義者な男”として自らを《無造作紳士》なる曲に登場させるセンスが素晴らしい。
ブラームスの交響曲第三番二楽章を使ってL.A.をバビロンになぞらえて描いてしまう発想の跳びっぷりが素晴らしい。
このエロ中年特有の狡猾さ、したたかさ、ユーモアセンス、悪辣な知性、ハチャメチャさ。
これらすべてが、今の私には欠けている。ああ悔しい(嘘)。
自宅にあるゲンスブールの何冊かの本の中に掲載されている写真を見る。
特に晩年の風貌。
寝惚け眼に、無精ひげ。
酒太りで腹もデップリと出ている。
加え煙草に、汗くさそうな風貌。
しかし、そんな彼にも美しい女性が集まってくる。
やっぱり男はルックスではなくて才能、あるいは実力だよなと思ってしまう。
もっとも女性から見ると、そんな寝惚けた熊のような風体も可愛いく映るのかもしれないが。
若さゆえ(?)に、まだまだ今の私が、そっくり真似をするとシャレにならない事態に陥ってしまう。
いや、べつにそっくりそのまま真似をしてみる気は毛頭無いんだけどね。
私なんお、ステージ上で歌っている女の子のお尻を、ウッドベースを引きながら、隙あらば後ろからアルコ(弓)でツンツンしたいだなんて思う程度なのだから、まだまだ可愛いものだ。
というか、この情けないヒヨコっぷりが逆に恥ずかしすぎて、アナがあったら入りたい(嘘)。
まぁ、10年ぐらいの時間をかけて、ゆっくりと、そして、じっくりと身につけてゆこうとは思っている(半分嘘)。
そして、今日も飯がうまい(これは本当)。
記:2003/10/24
追記
このテキストを書いて、しばらく後に『ゲンスブールと女たち』という映画の試写を観た。
やっぱり、ゲンスブール、素晴らしいっすね。
役者は、ちょっとイメージ違ってたけど……。