「一般論」など、聞きたかない。
2016/03/14
司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』にこのような場面がある。
日本海海戦の参謀・秋山真之がまだ書生だったころ、自分の将来の進路を考えあぐね、陸軍の騎兵隊大尉の兄・好古に相談をしに行くところだ。
真之は大学予備門をやめたいこと、そして「人間とはどう生きればよいのか」という悩みを兄に持ちかける。真之を諭す好古の言葉がとても印象的だ。
「おれの得た思案は、お前のためにならぬ」
(「なぜです」と問い返す真之に)
「わしは日本陸軍の騎兵隊大尉秋山好古という者で、ざんねんながら漠然とした人間ではない。」
ここで言う「漠然とした人間」とは「書生」のことを指すのだが、すでに社会に所属してしまい、具体的な肩書きを持った以上、「人間とは何か?」のような普遍的な問題は考えられず、ただただ「陸軍騎兵隊大尉秋山好古はどうあるべきか」ということ以外考えれられないということだ。
つづけて、
「おれは、単純であろうとしている。(中略)複雑に考えることも大事だが、それは他人にまかせる。それをせねばならぬ天分や職分をもったひとがあるだろう。おれはそういう世界におらず、すでに軍人の道を選んでしまっている。(中略)負ければ軍人ではない。だからいかにすれば勝つかということを考えてゆく。その一点だけを考えるのがおれの人生だ。それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、みだれる。」
頑固、一徹、といえばその通りなのかもしれないが、私にはある種の爽やかさを感じる。
そして私はこのような考え方をする人が、わりと好きだ。
好古はあくまで「軍人」の立場としてしか考えられないと言っている。
既に、自分自身の思考の枠組みや考える基準が定まっているということだ。
素晴らしいことではないか。
ありきたりな言葉にすると、「自分の考えを持っている人」ということか。
私はよく「定点」という言葉を使っているが、何か自分の思考の中心や基準を持っている人の意見は傾聴に値する。それがたとえ反対意見だとしてもだ。
たまたま、『坂の上の雲』の「人生相談」のシーンを引き合いに出したが、その人の考えの深さ、きちんとした己を持っているかどうかということは、相談を持ちかけたときの回答に顕著にあらわれるのだと思う。
上記の相談ごと、真之からしてみれば満足な回答では無かったのかもしれないが、相談して一発で解決する悩み相談などありはしない。
選択肢を示してあげること。
逆に選択肢を絞り込んであげること。
問題を交通整理してあげること。
この3つのうちのどれかが出来れば、相談者としては上出来だと思う。
最初から問題のすべてを解決しようと考えること自体おこがましい。「手助け」が出来ることのせいぜいだと思うし、それ以上のことをやろうとしても無駄だと思う。あとは本人選ぶこと、本人が決めること。
ヘンに「人生いろいろ」「人それぞれだから」といったように、ありきたりな回答をしなかった好古の回答には好感が持てるし、彼の人生観や人間性が非常によくあらわれていて面白い。
今も昔も、雑誌・テレビなどの人生相談のコーナーが賑わっているが、回答者は「極端な回答」をする人が多い。もちろん第三者から見ての面白さというものもあるのだろうが、回答者には「一癖二癖はありそうな人」「海千山千」な人が多いし、そのような回答をする人の方が人気がある。
宮崎学は学生運動時代の話や、裏社会の豊富な体験を引き合いに出しながら、北方謙三は、男らしさにこだわり、ふやけた質問には渇を入れつつも自身の作家体験を引き合いに出し、宮嶋茂樹は、右翼がかったテイストを芸風に、カメラマンとしての各国の取材経験を引き合いに出しながら回答を導く。
彼らの回答は時に極端で、そして手厳しい。
しかし共通していることは、引き合いに出せる確固としたものを持っていること。そして思考が常に一貫している。
彼らの回答を導き出す過程も、そして恐らくは結論も周囲はだいたい予想がつくし、相談者も見当ぐらいはついているのかもしれない。
しかし、それでいいのだ。
「ああ、あの人はやっぱりそのような回答をしたか。でも自分の考えとは違うな。」と思えるだけでもいいのだ。選択肢の一つを強いカタチでうち消されただけでも前進したも同然だからだ。
たとえ考えが自分と違う人間でも、きちんとした立脚点を持っている人は信用できるし、私もこのような人間を目指したい。
相談をたくさん持ちかけられる人ではなくて、きちんと己の考えと立脚点を主張できるだけの自分を持ちたい、ということ。
反対に私がもっとも忌み嫌うのが、なぁなぁとした回答しか出来ない人間。このような手合いは昔からほんッとぉ~に大嫌いで、昔はイジメの対象、今は黙殺の対象だ。
「人それぞれだし。」
「自分がいいと思うんならそれでいいんじゃん。」
「結局人生なんてもんは…」
というような発言。
一見当たりさわりが無く、耳障りは良いのかもしれないが、回答ですらない。
単なる一般論だ。相談者だってそれぐらいのことは分かっている。
小学生の学級会じゃあるまいし、舐めんなよと思われても仕方がないだろう。
「意見」など何も言ってないくせに「結局」だなんて言葉で総括しようとすんなタコ、と思ってしまう。
「人それぞれ」なのは重々承知した上で、より突っ込んだ「その人の意見」を相手は求めているのだ。「人それぞれだから、じゃあアナタの考えは?」なのだ。
自分を語らず、一般論で総括して、丸く収めようとする態度が気に入らない。いや、語れるだけのものを持っていないのかもしれない。
しかし、このような曖昧な言辞の方が確かに耳障りは良いし、慰め&励ましのニュアンスにもとれるので少なくとも「カド」はたたない。
「カド」はたたないが、それだけ。進展も発展もない。己の底の浅さを露呈させているだけ。会話としても面白くない。
このようなことしか言えない人は、要するに、人間としてツマラナイ。
漫画家の南伸坊はこの手の人間のことを「紅茶野郎」と呼んでいるそうだ。
紅茶=セイロンで「セイロン野郎」ということだが、中々うまいことを言ったものだ。
私はその種の手合いとは酒の席などでは一切同席したくはないのだが、現実問題としては、世の中には結構いるので困ったものだ。
そう、結構いるんだよな、どの団体・組織・グループにも必ず一人は。まとめ屋さん、そして総括屋さん。彼らには悪意はない。善意でグループ内の調整に心砕いているつもりでいるから始末におえない。
勝手にしてくれとしか言いようがない。いや、言わないけどね。相手にしないだけ。
記:2001/01/14
※「極端な回答」
一例をあげるとすると、たとえば小説家の北方謙三は15年以上の長きにわたって雑誌『Hot-Dog Press』(講談社)で「試みの地平線」という3ページの人生相談コーナーを持っている。雑誌の読者から持ちかける相談は、「女性」についての悩みが多い。
「童貞で女性恐怖症なんです。」という相談には一貫して「金を貯めてソープへ行け。そして女性など大したことがないということ、そして色々なタイプの女性がいるということを知れ」。
「つきあっている彼女に手を出すのが怖い」に対しては、「馬鹿野郎、押し倒せ」(笑)。
暇なときにこのコーナーだけは面白いので立ち読みしているが、15年近く一貫して同じ回答。しかし、雑誌の中で毎号3ページも費やすコーナーが15年も続いているということは、それだけ支持されていることだし人気のあるコーナーなのだろう。大手メジャー誌が惰性でコーナーを続けるなどということは絶対にあり得ない。