加爾基 精液 栗ノ花/椎名林檎
2021/02/10
現時点においての最高傑作
椎名林檎の新しいアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』は、とてもクオリティの高いアルバムだと思う。
音楽的にも、そしてサウンド的にも、だ。
林檎ファンはもちろんのこと、むしろ椎名林檎ってどんなミュージシャンなのだろう?と、興味を持った人にこそお誂え向けなアルバムだと思う。多面体的な彼女の魅力と表現力を様々な角度から味わえる内容だからね。
むしろ、かぎりなくバンド形式なアレンジに近い以前の作品群に耳慣れたファンのほうが、違和感を感じるのかもしれないね(理由は後述)。
先ほど“多面体”と書いたが、バンド形式の勢いある演奏をバックにして歌う林檎も彼女の中の“多面体の中の一つ”な表現に過ぎない。
音良し、サウンドのクオリティ高し。彼女の歌声以外にも“耳の好奇心”を満足させる要素がふんだんに盛り込まれている。そして、数回聴いただけでは解き明かせない“謎”な部分も丁度良い具合に散りばめられている。
そういった意味からも、私にとっては長い時間をかけて付き合えるアルバムになるかもしれない。
考えてみれば、過去の私のヘヴィーローテーションアルバムは、一回や二回では到底理解出来ない、深い音世界と、現時点での自分の感性では捉えきれない謎がほどよい塩梅で散りばめられていたものが多い。
パッと思いついた順番でランダムに列記してみる。
マイルス・デイヴィス『ピッチェズ・ブリュー』
エリック・ドルフィー『アザー・アスペクツ』
YMO『BGM』『テクノデリック』
坂本龍一『B-2 unit』『エスペラント』
セシル・テイラー『ライブ・アット・ザ・カフェ・モンマルトル』『コンキスタドール』
マーサ・アルゲリッチとアレクサンドル・ラビノヴィチ『メシアン/アーメンの幻影』
ポリーニ『シェーンベルクピアノ作品集』
……などなど。
決して、難解過ぎもせず、そして簡単に底が見えるほど浅薄な内容でも無いアルバム。
このバランスをとても良い具合で満たしているのが上記アルバムだが(本当はまだまだあるけど)、椎名林檎の『加爾基 精液 栗ノ花』もその仲間に加わる可能性が高い。
私は、これは一部の林檎ファンの“戸惑いの表れ”だと理解しているが、『加爾基 精液 栗ノ花』は「林檎初心者」は、最初に聴かないほうが良いというようなことを言っている人がいて、実際そのようなことが書かれているHPもあった。
しかし、私はそれは違うと思う。
「バンド形式での音楽表現をメインでやっていたアーティストが、違うアプローチの音楽を作ったわけだから、まずは前のアルバムから遡って聴いた上で、今度の新譜を味わいなさい」ってことなのだろうか?
「自分が聴いた順番」や「自分が理解した順番」。もしくは、「自分が感動した順番」をも相手に要求することに果たしてどれほどの意味があるのだろうか?
余計なお世話以外の何ものでもないと思うのだが。
『無罪モラトリアム』なり、『勝訴ストリップ』なり、『絶頂集』なり、『唄ひ手冥利』なり、諸々のシングルなりを聴いてからというヤヤコシイ手順を踏まないと『加爾基 精液 栗ノ花』というアルバムは聴いちゃいけないのだろうか?
第一、『加爾基 精液 栗ノ花』は、いちいち過去の作品の力を借りないとダメな弱い作品なのだろうか?
これはこれで、独立した一個の強い力を放つ作品なわけで、いちいち椎名林檎の経歴をなぞりながら“ああいうことをやって、こういう音楽をやった人が作った作品”という理解を前提に聴かなければならないなんて、かったるい上に、しゃらくせぇぜ。
椎名林檎にも、いや他の音楽にも言えることだが、純粋なる音表現を前に、初心者もベテランも本当は無いのだ。
本当は、ね。
初心者とマニア。
この両者に差があるとすれば、それは知識と情報量の差に過ぎない。
音楽と対峙したときの“感受性”には、初心者も、マニアも、ベテランも、ファン歴何年といった無意味は自己満足的経歴も関係無いはず。
ややこしい手順を踏まずとも、また、「何々を歌って、これこれが代表作な人」といった経歴やら文脈を用意せずとも分かる人には分かるし、分からない人には分からない。そして、感じない人には何も感じない。
それだけの話だ。
記:2003/03/04
収録曲
1. 宗教
2. ドッペルゲンガー
3. 迷彩
4. おだいじに
5. やっつけ仕事
6. 茎
7. とりこし苦労
8. おこのみで
9. 意識
10. ポルターガイスト
11. 葬列